夜。
雑居ビルの一階奥にある喫茶「はり」には、まだ灯りがついていた。
カウンターの中で、ジンがカップを拭いている。
黒髪を後ろで束ね、口元と顎には整えた黒いひげがある。黒いシャツの袖を肘までまくり、濃い茶色の前掛けを着けていた。前掛けの上からでも、肩と腕の太さが分かった。
ミオはカウンター席で頬杖をつき、空になったグラスの氷をストローで転がした。
水色のツインテールが、椅子の背で揺れている。
からん。
店内に音が響く。
「今日も客いないね」
「いる」
ジンはカップを棚へ戻した。
「どこに?」
「三人」
ミオが奥を振り返る。
桃色の長い髪を背中へ流したレイが、いつもの席でコーヒーを飲んでいる。
カウンターの端では、金髪のボブに眼鏡をかけたナギが端末を見ていた。
三人とも白いジャケット姿だ。縁取りは、ミオがシアン、レイがマゼンタ、ナギがゴールド。
腰には同じ形の黒いバックルがある。
ミオは自分を指した。
「私たち、客だったんだ」
「金を払えばな」
「そこ大事なんだ」
もう一度、ストローで氷を転がす。
窓の外で、駅前通りの信号が青になった。
車が止まる。
横断歩道の前にいた会社員は動かなかった。
青い光が革靴の先を照らしている。白線を一本またげばいいのに、その足は地面に貼りついたように止まっていた。
ミオの指がストローから離れた。
「……あれ?」
会社員の後ろにいた女性が、手提げ袋を抱えたままベンチへ座った。
駅の階段では、学生が途中の段へ腰を下ろした。
ミオは椅子から立ち上がった。膝がカウンターの下へ当たり、グラスの氷が跳ねる。
「信号、青だよね」
レイがカップを置いた。
「青です」
ナギも窓を見る。
信号が点滅を始める。
会社員は渡らないまま、赤信号に変わるのを見ていた。
ミオは扉へ向かった。
「ちょっと見てくる」
レイとナギも立った。
店の前。
会社員が横断歩道から離れ、街灯の下で立ち止まった。
「どうせ間に合わない」
声は小さかったが、ミオには聞こえた。
配達員の腕から荷物が滑り落ちる。
ミオは地面へ落ちる前に受け止めた。
「危ない。はい」
差し出しても、配達員は手を伸ばさない。
「もういいです。置いてください」
荷物には届け先が表示されている。二百メートル先の建物だった。
「すぐそこじゃん」
「行っても、変わらないから」
配達員は壁にもたれ、目を閉じた。
ミオは荷物を抱え直した。
眠そうな顔ではない。怪我もしていない。それなのに、立つことも荷物を受け取ることもしない。
背中が冷えた。
「駅前広場まで続いています」
レイが通りの先を見ていた。
ナギが端末を開く。
「十二人。全員、同じ言葉を繰り返しています」
広場の方から、また声が聞こえた。
「どうせ無理」
ミオは配達員の荷物を店の入口脇へ置いた。
指が離れる前に、持ち手を一度強く握る。
「行こう」
三人が走り出す。
ジンは何も聞かなかった。
入口の表示を「営業中」から「準備中」へ切り替え、配達員の荷物を店内へ運んだ。
⸻
駅前広場。
階段に座り込む学生。
手すりにつかまったまま動かない老人。
ベビーカーの横で、押す手を下ろした父親。
怪我人はいない。
誰も倒れていない。
ただ、目の前の一歩を出そうとしない。
「どうせ無理」
「もういい」
「やっても変わらない」
いくつもの声が、同じ高さで重なっていた。
時計台の下に黒い人影が立っている。
細長い身体。
背中には、途中で折れた矢印のような突起。
胸にも、下向きに折れた黒い印がある。
顔には目も口もない。暗い穴だけが開いていた。
「どうせ無理」
低い声が広場を這う。
ミオの近くにいた男性が、膝から地面へ座り込んだ。
ミオは黒い人影を見た。
「原因、あれだね」
ナギが端末を向ける。
「周囲に同じ感情反応が出ています」
ゴールドの波形が画面を埋めた。
「無力感です」
黒い人影が三人へ顔を向ける。
「無理」
ナギが端末へ入力した。
「仮称、ムリダウン」
ムリダウンが腕を振る。
黒い衝撃波が石畳を削りながら迫った。
「下がって!」
レイが前へ出る。
三人は左右へ跳んだ。
衝撃波が空のベンチにぶつかる。背もたれが外れ、数メートル先へ転がった。
ミオは片手を地面について着地した。
「言ってるだけじゃないんだ」
レイが腰のバックルへ手を当てる。
「装着します」
三人が構えた。
「ARK SUIT――ENGAGE」
黒いバックルが開く。
三人の白いジャケットが光へ変わり、黒いフィールドスーツが全身を包んだ。
胸、肩、前腕、腰、膝、脛。
白い装甲が順番に固定される。
レイの肩と前腕には、三人の中で最も厚い装甲が展開した。マゼンタのラインが走り、左肩に「CENTER」の表示が灯る。
ミオの装甲は薄く、膝と足首に高機動ユニットが展開した。シアンのラインが点灯し、右肩と脚部に「BREAK」の文字が浮かぶ。
ナギの肩と前腕では小型センサーが起動する。眼鏡の上へ透明なバイザーが降り、ゴールドの照準が動き始めた。左肩には「SCAN」。
三人の胸部エンブレムが同時に光った。
「アーク・センター、レイ」
「アーク・ブレイク、ミオ!」
「アーク・スキャン、ナギ」
ミオは名乗り終えると同時に飛び出した。
「一気に行く!」
一歩。
二歩。
三歩目で、足首のユニットが地面を蹴る。
時計台まで一直線だった。
ムリダウンがミオを見る。
「間に合わない」
左足が地面へ落ちた。
足首のユニットから光が消える。
身体だけが急に重くなった。
「右へ行けば、左が遅れる」
ミオの視線が右へ動く。
階段の学生。
「左へ行けば、右が遅れる」
今度は左を見る。
手すりの老人。
広場の端にはベビーカーもある。
目に入る人が増えるたび、足の裏が石畳へ沈んでいく。
一番近い学生へ走ればいい。
その間に、反対側で誰かが倒れたら。
老人を支えに行けばいい。
その間に、ベビーカーへ攻撃が飛んだら。
「一人を選べば、残りは置いていく」
「……うるさい」
ミオは怪人だけを見ようとした。
だが、視線は学生、老人、ベビーカーの間を行き来する。
「一気に片づける!」
右足へ力を入れる。
膝が伸びない。
靴底が数センチ後ろへ滑った。
「誰から――」
声が漏れた。
ミオは奥歯を噛み、続きを飲み込んだ。
ナギの周囲へ、いくつもの解析画面が開く。
「干渉範囲を確認します」
ムリダウンがナギへ顔を向けた。
「調べても無駄」
画面の波形が乱れた。
「答えは出ない」
ナギの指が止まる。
開いた画面だけが増え、ナギの顔を金色の光で覆った。
広場では、人々が次々と座り込んでいく。
ムリダウンが両腕を広げた。
「何もしなければ、失敗もしない」
怪人が階段へ向かう。
座り込んだ学生の前で足を止め、黒い拳を振り上げた。
学生は両手を段についた。逃げようとしているのに、腰が上がらない。
ミオは前へ出ようとした。
右足が震えるだけだった。
「お前一人で何ができる」
レイの右足が、半歩前へ出た。
「この人の前には立てます」
ムリダウンが拳を振り下ろす。
レイが学生の前へ飛び込み、両腕で受け止めた。
白い前腕装甲に黒い拳がめり込む。
足元のタイルが割れた。
レイは下がらない。
「センター・グラビティホールド」
マゼンタの固定リングが怪人の足元へ広がった。
ムリダウンの両脚が石畳へ沈む。
レイは怪人を見たまま呼んだ。
「ミオ」
「……分かってる」
「私の右まで来てください」
レイの右側までは、タイル三枚分。
「一歩でいい」
ミオは自分の靴先を見た。
シアンの光は消えたままだ。
靴先のすぐ前に、タイルの継ぎ目がある。
「一歩では足りない」
ムリダウンの声が落ちてくる。
ミオは顔を上げた。
レイが学生の前で拳を受け止めている。
今、学生は殴られていない。
老人も、ベビーカーも攻撃されていない。
怪人の両脚は、レイが止めている。
ミオが今すぐ行く場所は、一つだった。
「一歩も出ないより、いい!」
右足を上げた。
靴底が、最初の継ぎ目を越える。
シアンのラインが一本だけ点灯した。
二歩目。
膝の装甲が光る。
三歩目。
足首のユニットが起動した。
「ブレイク・ステップ!」
ミオの身体がシアンの光になり、レイの右側へ飛び込む。
ムリダウンの腕を蹴り上げた。
怪人の拳がレイの装甲から外れる。
ナギの方で、画面が閉じる音が続いた。
一枚。
もう一枚。
最後に、胸の印を映した画面だけが残る。
「声を出した時だけ、胸の印が発光しています」
ナギの指が動いた。
「三回とも同じです。これで足ります」
ゴールドの照準がムリダウンの胸へ重なる。
「スキャン・フェイズロック」
金色の格子が胸の印を固定した。
「どうせ――」
ムリダウンの声が途中で切れる。
レイが固定リングを強める。
ナギが胸の印を狙い続ける。
ミオは前腕のブレードを展開した。
刃にシアンの光が走る。
ムリダウンの顔がミオへ向いた。
「一人で何ができる」
ミオはレイとナギを見た。
すぐに怪人へ向き直る。
「レイさんが止める。ナギさんが見つける」
地面を蹴った。
「私は壊す!」
「ブレイク・スラッシュライン!」
一閃。
胸の印が割れた。
ムリダウンの身体から黒い力が抜ける。
レイが正面へ踏み込んだ。
三人の胸部エンブレムが光る。
「アークエンジェル・トライアド!」
マゼンタ、シアン、ゴールドの光が怪人を包んだ。
黒い身体が細かな粒へ崩れる。
ムリダウンは何も言えないまま消えた。
⸻
広場に音が戻った。
ベビーカーの赤ん坊が泣き、父親が慌てて抱き上げる。
老人が手すりを握り直し、残りの段を下りる。
学生も鞄を拾って立ち上がった。
「あの」
学生がレイを見て、次にミオを見る。
「ありがとうございました」
「怪我は?」
レイが聞く。
「ありません」
「なら、階段の端を歩いてください」
「はい」
学生が階段を上っていく。
ナギのバイザーからゴールドの光が消えた。
「周囲の感情反応、正常です。負傷者もいません」
レイがバックルへ手を当てる。
「ARK SUIT――DISENGAGE」
三人の装甲が光の粒となり、バックルへ戻った。
黒いフィールドスーツが消え、三人は白いジャケット姿へ戻る。
ミオは息を吐いた。
握ったままだった右手を開く。手のひらに、爪の跡が四つ残っていた。
「地味なのに、嫌な敵だった」
レイが歩き始めた人々を見る。
「人を止めるには十分です」
駅前通りの信号が青になる。
会社員が白線を越えた。
一人目に続いて、二人目、三人目が横断歩道へ入る。
ミオは最後の一人が向こう側へ着くまで見ていた。
「三歩しかなかったのに」
レイがミオを見る。
「三歩、進みました」
ミオは爪の跡がついた手を背中へ隠した。
「数えなくていいよ」
⸻
深夜。
喫茶「はり」。
三人が扉を開ける。
ジンがカウンターの中から顔を上げた。
「終わったか」
「終わりました」
レイが答える。
店の隅には、先ほどの配達員が置いていった荷物がない。配達員が取りに戻ったらしい。
ミオはいつもの席へ座った。
両手を膝の間へ挟む。指先には、まだ少し力が入っていた。
「マスター。今日だけココア」
「いつも頼め」
「甘いの欲しくなる日もあるの」
ジンは何も言わず、鍋を火へかけた。
ナギが端末を伏せる。
「同じ種類の怪人が続く可能性があります」
ミオがナギを見る。
「人の足を止める怪人?」
「今回は無力感でした。別の感情を使う個体が現れる可能性もあります」
「また足が止まるかもしれないんだ」
口にしてから、ミオは窓へ顔を向けた。
レイがいつものコーヒーを受け取る。
ジンはミオの前へココアを置いた。
「熱いぞ」
「うん」
ミオは両手でカップを包んだ。
熱が指先へ移ってくる。
「レイさん」
「はい」
「さっき、私の足が止まってたの、見た?」
「見ていました」
「そこは見てないって言ってよ」
「なぜです?」
ミオはココアへ目を落とした。
表面の泡が小さく揺れている。
「……次も止まってたら、また言って」
「何をですか?」
「一歩でいいって」
レイはすぐにうなずいた。
「分かりました」
ミオはカップを持ち上げる。
「次は、言われる前に動くけどね」
「はい」
ナギが端末へ指を伸ばした。
「『止まったら声を掛ける』と『次は自分で動く』。両方、記録しておきます」
「読み上げなくていい!」
ジンは口元を動かさず、次のカップを拭き始めた。
窓の外で、駅前通りの信号が青になった。
人々が横断歩道を渡っていく。
ミオはココアを飲みながら、最後の一人が白線を越えるまで見ていた。
