訓練の日のいなくなる人
アークシティ外縁住宅区では、年に何度か防災訓練が行われる。
朝の広場には簡易受付端末が並び、路面には避難方向を示す白い誘導表示が浮かんでいた。集まった住民の顔には、眠気と諦めが半分ずつある。
澪は個人端末に表示された訓練案内を見て、顔をしかめた。
「朝八時集合って、本気?」
隣で凪が自分の端末を確認する。
「本気でしょうね。防災訓練は、だいたい朝に始まります」
「知ってる。知ってるけど、眠い時間に正論を言われると腹立つ」
その横で、玲はすでに案内を読み終えていた。
「北側の通りを経由して、高架下の第二集合地点へ移動。途中で人員確認」
玲は端末を閉じる。
「標準的な訓練ですね」
「標準的で結構です」
凪がうなずいた。
「今日は、そのまま標準的に終わってほしいです」
その言い方に、澪がすぐ横を見た。
仁がいた。
腕を組み、広場全体を見渡している。ただの参加者なのに、立ち姿だけは訓練責任者より責任者らしい。
澪は嫌な予感を隠さずに言った。
「なんか考えてる顔してる」
「考えている」
仁はあっさり認めた。
「やめて。その素直さ、今はいらない」
「訓練についてだ」
「もっといらない」
凪も仁を見た。
「念のため確認しますが、勝手なことはしませんよね」
「勝手、とは曖昧な表現だ」
凪は小さく息をつく。
「その返しをした時点で、だいたい勝手なことをするんです」
訓練開始時刻になり、町内会の担当者が前へ出た。
「それでは、本日の防災訓練を始めます。受付確認後、誘導表示に従って――」
「一ついいか」
仁が前へ出た。
澪は目を閉じた。
「終わった」
凪が横から言う。
「まだ始まったばかりです」
「私の心が終わったの」
担当者が戸惑いながら仁を見る。
「はい。何でしょう」
仁は広場に集まった住民を見渡し、低い声で言った。
「この訓練には、欠けているものがある」
言い方だけは、すごくそれらしかった。
周囲が少し静かになる。
澪が小声で言う。
「言い方で押すの、やめてほしい」
仁は続けた。
「実際の災害では、人は決められた通りには動かない。道を間違える者がいる。説明を聞き漏らす者もいる。途中で予定外の経路へ入る者もいる」
近所の男性が感心したようにうなずいた。
「いますねえ」
澪はすぐに男性へ顔を向けた。
「納得しないでください。今、すごくよくない流れなんで」
仁は構わず言葉を継ぐ。
「だから必要だ。そういう人間が一人――」
一拍置いた。
「先にいなくなることが」
広場がしんとなった。
最初に口を開いたのは凪だった。
「だめです」
「まだ何もしていない」
「発言の段階でもうだめです」
澪は担当者を見る。
「今の、聞かなかったことにできません?」
「さすがに聞こえました」
「ですよね」
仁だけは落ち着いたままだった。
「訓練である以上、人を見失った状況も確かめるべきだ」
凪が冷静に返す。
「自分から見失われに行く人を、私は初めて見ました。しかも、ものすごく堂々としています」
玲が静かに口を開いた。
「仁さん」
「何だ」
「それは訓練への参加ではなく、単独離脱です」
「確認だ」
「離脱です」
「計画的な確認だ」
「計画的な離脱です」
澪は吹き出しそうになるのを抑えながら、仁の前へ回った。
「今日はやめよう。普通に歩いて、普通に集合して、普通に帰ろう。朝から住宅区に変な前例を残さないで」
「遅い」
仁は澪を見ることなく答えた。
「もう必要性に気づいてしまった」
「気づくな」
仁はそのまま、広場の端へ向かって歩き出した。
「待って」
澪が手を伸ばした時には、もう遅かった。
仁は急ぎもせず、迷いもせず、いかにも自分は必要な確認をしていますという背中で、植え込みの横を抜けていった。
「あっ、本当にいなくなった!」
凪が端末を開く。
「位置情報はまだ拾えます。北側の生活道へ向かっています」
澪は走り出した。
「なんで最初から抜け道なんだよ!」
玲もすでに歩き出している。
「澪」
「分かってる!」
四人のうち一人だけが独自の訓練を始め、残りの三人が追う。
朝の住宅区で行われる防災訓練としては、何かがおかしかった。
*
仁が入ったのは、共同住宅の裏手を通る細い生活道だった。
朝は配送台車が通り、昼は住民が近道に使い、夕方になると子どもたちが走り抜ける。便利ではあるが、正規の避難経路には指定されていない。
最初に追いついた澪が声を上げる。
「仁さん!」
仁が振り向いた。
「来たか」
「来たか、じゃないの。なんでそんなに落ち着いてるの」
「私は今、見失われる側の視点を確認している」
「元気に目的地へ向かってる人の台詞じゃないんだよ」
仁は道の途中で止まり、壁に設置された避難案内表示を見上げた。
「やはり高い」
澪も見上げる。
「何が?」
「案内表示だ。急いでいる時に、この高さまで視線を上げない人もいる」
追いついた凪も、つられて表示を見る。
「……たしかに少し高いですね」
澪がすぐ凪へ向き直る。
「乗らないで。今は現地調査の会じゃないから」
玲は二人の横を抜け、足元に積まれた配送用の荷箱を見た。
「こちらも通行を狭めています。二人並ぶと詰まりますね」
仁がうなずく。
「そうだ。だから見に来た」
澪は腕を組んだ。
「見に来るのはいい。最初に言って」
「言えば止められる」
「止めるよ。当然でしょ」
「だから言わなかった」
澪は仁の顔を見る。
「小学生?」
玲が静かに言った。
「問題意識は理解できます」
仁が少しだけ顎を上げる。
「そうだろう」
「相談しない理由にはなりません」
「そこはそうだ」
澪が思わず仁を見る。
「認めるの早いな」
四人は、そのまま生活道の先まで進んだ。
道を抜けると、高架下へ続く低い補助通路がある。昼間でも薄暗く、足音や声が壁の間で複雑に反響していた。
仁が周囲を見回す。
「ここもよくない」
「まだあるの?」
仁は天井を見上げた。
「照明が足りない。声の方向も判断しづらい」
澪が試しに声を出した。
「おーい」
声は壁に跳ね返り、四人の後方から聞こえた。
澪が振り返る。
「うわ。ほんとだ。どっちから聞こえたか分からない」
凪は端末を操作し、現場情報を登録し始めた。
「照明の間隔も広いですね。煙が入れば、床面誘導も見えにくくなります」
「だろう」
仁がうなずく。
「だから確認する必要があった」
澪は仁を見る。
「必要だったとしても、最初に話して、みんなで来ればよかったでしょ」
仁は少し考えた。
「その場合、私はもっと丁寧に止められていたと思う」
「丁寧に止めるよ!」
「なので、先に動いた」
「先に動くな!」
その時、遠くの広場から地域放送が流れた。
『参加者番号二十七の所在を確認しています。近くにいる方は、訓練本部までお知らせください』
澪は両手で顔を覆った。
「番号で呼ばれてる!」
凪もこめかみに指を当てる。
「本当に地域放送案件になりました」
玲は仁を見る。
「感想はありますか」
「想定どおりだ」
「その顔で言われると腹が立ちます」
*
広場へ戻ると、訓練本部には微妙な空気が漂っていた。
担当者が仁を見る。
仁も担当者を見る。
その間に入った澪が、先に頭を下げた。
「すみませんでした!」
仁が横から聞く。
「君が謝るのか」
「この中で、いちばん謝る顔ができるのが私だから!」
担当者は疲れたように息をついた。
しかし四人が見つけた問題を報告すると、次第に表情が変わっていった。
「案内表示が高い……たしかに、子どもには見づらいですね」
「生活道の荷箱で通路が狭くなることがある、と」
「高架下の補助通路では、音の方向が分かりづらい……」
周囲の住民からも声が上がった。
「ベビーカーだと、あの道は曲がりにくいのよ」
「朝は配送台車も重なるな」
「うちの母も、あの案内をよく見落とすんです」
担当者の端末に、確認項目が次々と追加されていった。
ひと通りの登録を終えると、担当者は仁へ向き直った。
「内容は助かります。ただし、やり方は非常に困ります」
澪が真っ先にうなずく。
「はい。本当にそうです」
凪も続けた。
「かなり困ります」
玲は仁を見る。
「次は、事前に相談してください」
仁は少し黙ってから答えた。
「分かった」
澪がすぐに聞き返す。
「ほんとに?」
「分かった」
「その言い方、全然信用できないんだけど」
仁はもう一度考えた。
「次は、もう少し分かりやすく行動する」
「違う! そこじゃない!」
凪が眼鏡の位置を直す。
「改善の方向がずれています」
*
訓練を終えた四人は、高架沿いの歩道を歩いていた。
頭上をエアロシャトルが低い走行音とともに通過する。朝の光はすでに高くなり、訓練を終えた住民たちも、それぞれの帰り道へ散っていた。
澪が笑いながら口を開く。
「でもさ、ちょっと面白かったんだよね」
凪が呆れたように聞き返す。
「どこがですか」
「仁さん、いなくなる時だけやたら静かだったでしょ。もっと堂々と走っていくのかと思った」
仁は簡潔に答える。
「走れば目立つ」
「そこだけ判断が冷静なんだよ」
玲が小さく言った。
「慣れていますね」
澪が玲を見る。
「何に?」
「必要だと思った場所へ、勝手に行くことに」
仁は前を向いたまま答える。
「必要だと思った場所は、自分の目で確認したい」
「そこは分かる」
澪もうなずいた。
「でも、一人で行くなって話なの」
「人数が増えれば、止められる」
「だから止めるって言ってるでしょ!」
凪は端末を閉じた。
「今回の判断履歴は、私が登録します」
「頼む」
「冒頭に『訓練中の単独離脱は禁止』と入れます」
仁が凪を見る。
「私への意見か」
「再発防止事項です」
玲が短く付け加えた。
「ほぼ名指しですね」
*
その日の夕方。
住宅区の電子掲示板に、防災訓練の確認結果が表示されていた。
避難案内表示の位置を見直すこと。
生活道の障害物配置を確認すること。
高架下補助通路の照明と音声誘導を再点検すること。
そして、最後に一行が追加されていた。
訓練中は、単独で予定外の経路へ入らないこと。
掲示を見た澪が吹き出した。
「増えてる!」
凪も表示を見上げる。
「正式な注意事項になりましたね」
玲は静かに言った。
「かなり分かりやすいです」
仁は掲示を見て、ゆっくりとうなずいた。
「街が一つ改善された」
澪はすぐに返す。
「原因の人が言う台詞じゃないんだよなあ」
その横で、近所の女性が掲示を見ながら首をかしげた。
「こんな注意、前からあったかしら」
連れの女性が答える。
「なかったわよ。誰かがやったのね、きっと」
四人の間に沈黙が落ちた。
澪は肩を震わせ、凪はそっと目をそらす。玲は表情を変えなかったが、ほんの少しだけ視線を落とした。
仁だけが、まっすぐ掲示を見ていた。
澪が横から仁の顔をのぞき込む。
「心当たりがある顔しないで」
「していない」
「今、世界でいちばんしてる」
仁は少しだけ言葉を選んだ。
「私はただ――」
掲示を見たまま、続ける。
「気づいた問題が、そのままにならなかった。それでいい」
澪はとうとう声を上げて笑った。
「そういう言い方するから、困るんだって!」
高架の下に、澪の笑い声が響いた。