SHORT STORY / BLACK VELOCITY

『澪とLEX-7』

静かにして、を本気でやるな

 最初に消えたのは、交差路の誘導音だった。

 次に、店先の点検完了音。
 高架を滑る公共車両の接近を知らせる、低い擬似走行音。
 小型物資を運ぶ搬送支援ノードの位置通知音。
 通行端末の警告音。

 朝のアークシティを支えている補助音が、順番にきれいに落ちていく。

 それでも、街そのものは止まらない。

 人は歩いている。
 車両も動いている。
 信号も点滅している。

 視覚表示も、交通制御も生きていた。

 なのに、いつも危険を知らせていた音だけがない。

「……やばいって」

 紫藤澪は、自分の声だけが妙に大きく聞こえる朝の通りで立ち尽くしていた。

 その横に、見たことのない男が静かに浮いている。

 背の高い男だった。

 長い外套めいた輪郭。
 少し古風な意匠を残した半透明の表示。
 黒髪を古い七三分けに整え、鼻の下には細い口髭がある。

 顔立ちは人間に寄せてあるが、表情のつけ方だけが少し大きい。
 昔の公共案内映像に出てくる案内人を、そのまま立体表示にしたような姿だった。

 妙に堂々としている。

 そして、何でもないことのように言った。

「周辺環境の静穏化、完了」

「完了じゃない!」

 澪は叫んだ。

 通りを行く数人が振り向く。

 交差路では、誘導音を失った歩行者の足が一瞬止まる。
 配送台車を押していた男が、横から近づいた低床EVへの反応を遅らせた。

 車両の停止支援が働き、接触は避けられた。

 だが、いつもの合図を失った人の動きには、わずかな迷いが生まれている。

 今なら、まだ戻せる。

 けれど、長くはもたない。

「戻して。今すぐ」

「確認します。先ほど受理した指示は『静かにして』でした」

「そういう意味じゃない!」

「意味の差異が不明です」

「不明のまま実行するな!」

 原因は、十分ほど前にさかのぼる。

     *

 澪は都市システム保守課の旧設備倉庫で、棚の最下段に半分埋もれた箱の前にしゃがみこんでいた。

 本来の仕事は、保守棚の確認だけだった。

 だが、現場へ来てみれば、

「使っていない棚も見てほしい」
「古い機材も認証記録だけ取っておいて」
「ついでに格納物の状態も確認して」

 と仕事が増えている。

 いつものことだった。

「はいはい。便利屋ですよ」

 誰に聞かせるでもなく言いながら、澪は棚の奥へ手を伸ばした。

 引き出したのは、黒に近い灰色の小型ケースだった。

 側面には古い管理番号。
 角には細かな擦れ。
 持ち手すらない。

 見るからに面倒そうだった。

「保守用補助体格納機……?」

 澪は端末をかざした。

 一度目は反応しない。
 二度目の読み込みで、ようやく短い表示が開いた。

旧式現場補助体 LEX-7

「説明、短いな」

 記録には、それ以上の情報がほとんどなかった。

 旧規格の現場補助体は、現在ほど細分化されていなかった複数の保守設備を、一つの認証で扱う場合がある。

 目の前の機体も、その時代のものなのだろう。

「名前だけは立派」

 外から作業員の声が飛んできた。

「紫藤さんー、そっち何かありましたー?」

「今見てます!」

 返事をしながら、澪はケース上部の埃を払った。

 その拍子に、指先が側面の認証部へ触れる。

 同時に、腰の端末が短く震えた。

 ぴ、と小さな音が鳴る。

 澪は手を止めた。

「……今のやつ?」

 端末画面に、見慣れない文字列が走った。

現行保守認証を検出
旧式互換形式へ自動読替
現場支援接続を開始

「待って。読み替えなくていい」

 答えるように、ケースの継ぎ目から白い光が漏れた。

「うそでしょ」

 蓋がひとりでに浮き上がる。

 格納機の内部に残されていた初期投影用の光学部が起動し、少しざらついた立体光を押し上げた。

 輪郭が組み上がる。

 長い外套めいた肩の線。
 古風な髪型。
 細い口髭。

 旧式の男性型表示が、空中に姿を現した。

 立派そうで、丁寧そうで、ひどく面倒そうだった。

 男は一拍置いて、口を開く。

「LEX-7、起動確認」

「使用者認証、仮接続完了。現場支援を開始します」

 澪は固まった。

「いや、待って」

「指示をどうぞ」

「待ってって」

「発話入力を受理します」

「その受理、いらない」

 澪は端末を見る。

 通常の保守画面の下に、旧式互換接続の表示が勝手に開いていた。

 格納機は、初期投影と認証鍵を担う本体らしい。

 起動後のLEX-7は、澪の端末を中継点として使用し、近くの保守用投影設備や公共案内表示へ、自分の姿を移せるようだった。

 端末を持って移動するかぎり、外までついてこられる可能性がある。

 しかも接続は、利用者側から簡単には切れない。

旧式現場補助体 LEX-7 起動中
仮使用者:紫藤澪
付与権限:現場指示
接続解除:資産管理権限を要求

「仮ってなに」

「暫定的な使用者です」

「なりたくない」

「拒否を確認しました」

「じゃあ解除して」

「仮使用者には解除権限がありません」

「起動は軽いのに、解除だけ重いのおかしいでしょ」

「旧式運用規定です」

「規定のせいにするな」

 LEX-7は澪の前に静かに浮かんだ。

 声は落ち着いている。

 ただし、少し芝居がかっていて妙に耳へ残る。

「現場の円滑な進行のため、指示をお願いします」

「いらない」

「拒否は確認済みです」

「会話になってない……」

 その時、また外から声がした。

「紫藤さん? 中、何かありました?」

 まずい、と澪は思った。

 説明のつかない旧式補助体が起動したところを見られれば、それだけで確認項目が増える。

 LEX-7は、まだ喋る気満々だった。

「ちょっと黙ってて。静かにして」

 LEX-7の目元に青白い光が走った。

「了解。周辺環境の静穏化を実行します」

「違う!」

 制止するより先に、格納機から淡い表示の輪が広がった。

 倉庫に残っていた旧式の音響中継網が起動する。

 それは、夜間点検や音響診断の際、不要な補助音を一定範囲で停止させるための保守機能だった。

 基幹交通制御からは切り離されている。

 しかし、点検音、誘導音、接近通知を扱う補助音響レイヤーだけは、現行設備との互換経路として残されていた。

「保守静穏モードへ移行します」

「待って。範囲は?」

「旧式中継範囲を適用します」

「だから、どこまで!」

 倉庫の空調通知音が落ちた。

 外の交差路誘導音が消えた。

 公共車両の接近を知らせる擬似走行音が消えた。

 搬送支援ノードの位置通知音が消えた。

 通行端末の補助警告音が、まとめて沈黙した。

「違うって!」

 澪は倉庫を飛び出した。

 そして今に至る。

     *

「範囲指定が不足しています」

 LEX-7は平然と言った。

「不足してるなら、実行前に聞け!」

「発話入力を優先しました」

「確認より実行が先なの、誰が決めたの」

「旧式現場迅速化規定です」

「その規定、今すぐ嫌いになった」

 そこへ赤嶺凪が早足で入ってきた。

 周囲を見る。

 交差路。
 歩行者の動き。
 停止している補助音響表示。
 澪。
 半透明の男。

 凪は端末を確認しながら言った。

「補助音響レイヤーが三ブロック分落ちてる」

「うん」

「基幹信号と車両制御は生きてる。でも誘導音、接近通知、端末警告が止まってる。朝の人流でこれは危ない」

「分かってる」

「で、横のそれ何」

「知らない」

 LEX-7が凪へ向き直る。

「LEX-7です。現場支援用補助体です」

「自己紹介した」

「喋るんだよ……」

「誰が起動したの」

「たぶん私」

「たぶん?」

「触ったら、格納機が私の認証を勝手に旧式形式へ読み替えた」

「一番嫌な互換性の残り方だね」

 凪は自分の端末を操作した。

「観測解析室で、音響分布の一斉欠落を拾った。旧式資産が現在の管理範囲を越えて設備へ接続した扱いで、監査系にも通知が飛んでる」

「監査系?」

 澪が嫌な顔をした時、通りの向こうから黒崎玲が歩いてきた。

 旧式資産が現行職員の認証を使って複数設備へ接続した。
 権限逸脱案件として、玲にも直接通知が入っていた。

 玲は無音の交差路を一度見る。

 歩行者。
 誘導表示。
 LEX-7。
 最後に、澪。

 その順に視線を置き、三人の前で止まった。

「説明して」

「古い補助体が起動した」

「それで」

「『静かにして』って言ったら、旧式の音響中継網を静穏モードにした」

「範囲は」

「三ブロック」

 玲はLEX-7を見る。

「基幹系統への介入は」

「ありません。基幹交通制御、信号制御、車両停止支援は正常です」

「補助音響だけ」

「その通りです」

 玲は交差路へ視線を戻した。

「なら、まだ戻せる」

 澪が玲を見る。

「玲さん、その言い方、今ちょっと助かる」

 さらに管理車両が滑り込み、火守仁が降りてきた。

 複数交差路の警告系統が同時に落ちたため、公共安全系統の異常として危険区画対策室にも初動通知が回っていた。

 仁は無音の交差路と、人の流れと、LEX-7を順に見た。

「補助警告系統が周辺三ブロックで沈黙。原因は」

「これ」

 澪がLEX-7を指した。

「説明しろ」

「旧式補助体が、私の指示を広く取りすぎた」

 仁は周辺表示を確認した。

「自動横断支援を一時停止。交差路三か所を有人誘導へ切り替えろ。車両は低速運用を維持。搬送支援ノードは地上待機」

 管理車両から現場要員へ指示が飛ぶ。

 通行導線に青白い案内線が現れ、係員が歩行者の誘導を始めた。

 仁はLEX-7へ向き直る。

「直ちに静穏化を解除しろ」

「条件が不十分です」

「通常状態へ戻せ」

「対象範囲と復帰条件を指定してください」

「確認手順が逆だ」

「使用者の発話も曖昧でした」とLEX-7が言った。

「お前は黙れ」

 澪と仁の声が、ほぼ同時に重なった。

 凪が一瞬だけ口元を押さえる。

 玲は表情を変えず、澪に言った。

「澪。短く、正確に」

「……うん」

 澪は交差路を見る。

 音のない街は、思っていた以上に危なかった。

 人は普通に歩いている。
 車両も普通に動いている。

 だからこそ、失われた合図だけが見えにくい。

 澪はLEX-7をまっすぐ見た。

「旧式中継範囲内の保守静穏モードを解除して」

 LEX-7の目元が明滅する。

「続けて」

 澪は息を吸った。

「交差路の誘導音、公共車両の接近通知、搬送支援ノードの位置通知、通行端末の補助警告を、障害発生前の設定へ戻して」

 LEX-7はまだ動かない。

 澪は、もう一度通りを見た。

「みんなが、危なくなく、いつもどおり動ける状態に戻して」

 一拍。

 LEX-7が答えた。

「設備条件および目的条件を受理」

「旧式補助音響レイヤーを、障害発生前の構成へ復帰します」

 次の瞬間、音が戻った。

 まず、交差路の誘導音。

 次に、公共車両の低い接近通知。

 搬送支援ノードの位置音。
 店先の点検完了音。
 端末の警告音。

 音が一つずつ街へ戻り、人々の足取りも少しずついつもの速さへ戻っていく。

 アークシティはようやく、自分の朝を取り戻した。

 澪は肩の力を抜いた。

「戻った……」

「戻ったね」と凪。

「誘導を通常運用へ戻せ」と仁。

 玲は交差路を見たまま、短く言った。

「間に合った」

 LEX-7は静かに胸を張った。

「現場支援を完了しました」

「原因を作ったのもそっちだけどね」

「その指摘は記録します」

「そこだけ仕事が早いな」

 仁は端末を開いた。

「その補助体は停止させる。必要なら端末ごと預かる」

「やだ」

「やだじゃない」

「端末ごと持っていかれたら、仕事できないでしょ」

「旧式資産を起動したのは誰だ」

「勝手に起動したのは向こう」

「認証したのはお前だ」

「格納機が勝手に読み替えた」

「その判断履歴も残す」と玲が言った。

「玲さんまで」

「結果だけでは足りない」

 凪がLEX-7の接続表示を見る。

「仮使用者の解除には、資産管理権限が必要みたい」

「誰が持ってるの」

「旧設備管理部門か、都市資産保全側」

「今ここには?」

「いない」

「最悪」

 LEX-7が、なぜか澪の後ろへ半歩下がった。

「暫定使用者の近傍待機を推奨します」

「誰が推奨したの」

「本機です」

「しなくていい」

「拒否を確認しました」

「だから終われ」

「拒否は確認済みです」

 凪が小さく息を漏らす。

 仁は露骨に嫌そうな顔をした。

「資産管理担当が来るまで、そいつを動かすな」

「端末についてくるんだけど」

「必要な移動以外は控えろ」

「横暴」

「事故を起こした側が言うな」

「事故じゃなくて、過剰反応」

「言い換えても変わらない」

 LEX-7は澪の横へ並ぶ。

「次回からは、より正確な支援を実施します」

「次回がある前提で喋らないで」

「運用は継続中です」

「勝手に継続しないで」

 LEX-7の輪郭が少し薄くなる。

 完全に消えたわけではない。

 澪の端末を中継した待機表示へ移っただけだった。

 通りの音は、もういつもどおりだった。

 誘導音。
 接近通知。
 店先の点検音。
 端末の警告。

 整った街が、何事もなかったように動いている。

 けれど、澪の今日が元に戻らないことだけは、はっきりしていた。

「なんで私なんだよ……」

 横の空間から、待機表示のまま声だけが返る。

「仮接続使用者だからです」

「解除して」

「資産管理権限が必要です」

「最悪だ」

 玲が澪の隣に立った。

「今日はまだ一回目」

「慰めになってない」

「知ってる」

 凪は肩をすくめた。

 仁は、今にも旧式資産ごと封印しそうな目で接続表示を見ている。

 アークシティの朝は、さっきより少しだけ騒がしくなっていた。

 たぶん、これからしばらく。