夕方。
喫茶「はり」に、煮込んだ肉と香辛料の匂いが広がっていた。
カウンターの端で、ナギは端末に列車時刻を表示している。
十七時四十二分発、快速。
壁の時計は十七時二十四分を指していた。
ナギは端末を閉じ、眼鏡の位置を直した。
隣では、ミオがカウンター越しに鍋をのぞいている。
「今日、カレー?」
「見るな」
ジンが鍋の蓋を戻した。
「辛い?」
「食えば分かる」
「先に知りたいんだけど」
「飯まで確認し続けるな」
「確認くらいさせてよ」
ミオは蓋の隙間へ顔を近づけようとした。
ジンが鍋を奥へずらす。
ナギは壁の時計を見た。
十七時二十五分。
ミオが振り返る。
「ナギさん、さっきも時計見てなかった?」
「一分進みました」
「時計だからね」
ナギは椅子から立った。
「私は先に帰ります。十七時四十二分の快速に乗ります」
「カレー食べないの?」
「今は食べません。次の快速は十八時十二分です」
ジンが鍋を弱火へかけた。
「残しておくぞ」
「ありがとうございます」
ナギは白いジャケットの裾を整え、店を出た。
扉が閉まる直前、ミオの声が追ってくる。
「辛さ、先に確認しとくね!」
「自分で食え」
ジンの声も聞こえた。
⸻
駅の地下通路。
ナギの前を、灰色のコートを着た女性が歩いていた。
女性は頭上の案内板を見上げる。
黄色い矢印には「東改札」と表示されていた。
女性がナギを振り返る。
「すみません。東改札は、この先で合っていますか?」
ナギは案内板と通路の先を見た。
「はい。黄色い案内板まで直進して、右です」
「ありがとうございます」
女性は改札方向へ進んだ。
十メートルほど歩く。
床の黄色い誘導帯の前で止まった。
手元の端末を見る。
頭上の案内板を見る。
来た道を戻ってくる。
ナギは歩く速度を落とした。
女性はナギの横を通り過ぎ、最初に立っていた柱まで戻った。
もう一度、案内板を見る。
また改札方向へ歩き出す。
同じ黄色い誘導帯で止まり、端末を開いた。
「これで合ってるよね」
女性の声は、さっきより小さかった。
近くの男性も、通路を三歩進んでは戻っている。
「閉まってないよね」
買い物袋を持った別の女性が、左右の階段を見比べていた。
「間違ってないよね」
ナギは通路の両側を見た。
同じ場所を往復する人が七人。
案内板を見上げたまま動かない人が四人。
端末に地図を出し、現在地の表示だけを何度も押している人が二人。
一人ではない。
ナギは端末を開き、通話をつないだ。
「レイ。ミオ。聞こえますか」
『聞こえます』
レイの声が返る。
『ナギさん、どうしたの?』
「地下通路で異常です。同じ場所を往復している人が十三人います」
『場所送って』
「今送ります」
ナギは現在地と通路図を送信した。
『マスター、カレー残しておいて!』
ミオの声が遠くなる。
『冷めるぞ』
『温めて!』
『自分でやれ』
通話の向こうで扉が閉まった。
ナギは端末の表示を通路へ戻す。
十三人の位置を一人ずつ記録した。
灰色のコートの女性が、三度目の往復を始める。
ナギは女性の進路から外れ、柱の脇へ誘導した。
「ここで待ってください」
「でも、改札に行かないと」
「通路の安全を確認します。黄色い線の内側にいてください」
女性は足元の線を見た。
「ここで大丈夫ですか?」
「今は、ここにいてください」
ナギは通路の奥へ目を向けた。
細い声が聞こえる。
「本当に?」
「大丈夫?」
「もう一回、確認したら?」
柱の陰で、小さな光が一つ点いた。
二つ。
三つ。
目のような光が、細い頭部の周囲を一周する。
黒い人影が柱の陰から出てきた。
背中には何本ものアンテナが伸びている。
先端が一斉に揺れ、通路の人々へ向いた。
「その道で、本当に合っている?」
灰色のコートの女性が、黄色い線から片足を出した。
ナギは女性の前へ腕を出す。
「動かないでください」
「でも、ここも危ないかもしれない」
女性の足が、線の内側へ戻らない。
通路の入口から足音が響いた。
「ナギさん!」
ミオが先に駆けてくる。
その後ろにレイがいた。
ナギは二人へ端末の画面を見せた。
「あの個体から強い不安反応が出ています」
黒い人影が三人へ顔を向ける。
「本当に、あれが原因?」
ナギは表示された波形とアンテナの発光を見比べた。
「発光と反応の発生時刻が一致しています」
端末へ仮称を入力する。
「フアンネルと呼びます」
三人は人々の前へ並んだ。
背後に十三人。
正面にフアンネル。
レイが腰のバックルへ手を当てる。
「装着します」
三人が構えた。
「ARK SUIT――ENGAGE」
黒いバックルが開く。
三人の白いジャケットが光へ変わり、黒いフィールドスーツが全身を包んだ。
胸、肩、前腕、腰、膝、脛。
白い装甲が順番に固定される。
レイの肩と前腕には厚い装甲が展開し、マゼンタのラインと「CENTER」の表示が灯った。
ミオの膝と足首には高機動ユニットが開き、シアンのラインと「BREAK」の文字が光る。
ナギの肩と前腕では小型センサーが起動する。眼鏡の上へ透明なバイザーが降り、ゴールドの照準が通路を走った。左肩には「SCAN」。
三人の胸部エンブレムが同時に光った。
「アーク・センター、レイ」
「アーク・ブレイク、ミオ!」
「アーク・スキャン、ナギ」
ミオが先に踏み込んだ。
フアンネルのアンテナが一本、シアンに光る。
「本当に走っていいの?」
ミオの足元で、床一面に亀裂が走った。
「っ!」
ミオが右足を止める。
靴底が床を擦った。
だが、ナギのバイザーには亀裂が映っていない。
床にあるのは、細い継ぎ目だけだった。
「ミオ。床は割れていません」
「分かってる。でも、見える」
「転んだら?」
「柱にぶつかったら?」
「誰かが飛び出したら?」
ミオは床と柱の陰を交互に見た。
足首のシアンの光が弱くなる。
フアンネルの別のアンテナがマゼンタに光った。
天井の案内板が外れ、レイへ落ちる。
レイは両腕を上げた。
案内板は、頭上へ届く前に消えた。
実際の案内板は天井に固定されたままだ。
「上も安全とは限らない」
レイが頭上からフアンネルへ視線を戻す。
「見えている危険と、実際の危険を分けてください」
「確認します」
ナギは解析を開始した。
バイザーへ四つの警告が出る。
床面強度、未確認。
天井パネル、固定状態不明。
右通路、柱の裏に死角。
民間人位置、再取得。
ナギは床へセンサーを向けた。
強度を測定する。
安全域。
警告を一つ閉じた。
フアンネルのアンテナが光る。
同じ四つの警告が、もう一列増えた。
「まだ確認が必要」
ナギは天井へセンサーを向けた。
固定具を三か所確認する。
異常なし。
天井の警告を閉じた。
アンテナがまた光る。
同じ警告が二列増えた。
「見落としているかもしれない」
ナギは柱の裏を走査した。
人影なし。
警告を閉じる。
その下から「右通路、再確認」が三つ現れた。
「全部確認して」
バイザーの端まで警告が埋まる。
通路が見えにくくなった。
ナギは表示を横へ払い、フアンネルの位置を探した。
その瞬間、短い映像が警告の間へ割り込んだ。
ミオが走る。
右足が床の亀裂に引っかかる。
肩から柱へぶつかる。
映像が切り替わる。
レイが正面で攻撃を受ける。
白い前腕装甲に亀裂が入り、背後の女性ごと床へ倒れる。
ナギの指が止まった。
実際のミオは、右足を引いたまま立っている。
レイの装甲にも傷はない。
予測映像だと分かっている。
それでも、ナギの視線はミオの足首とレイの前腕を確かめた。
「あなたが右へ行けと言った」
フアンネルの目のような光が、すべてナギへ向く。
「だから、ミオは柱にぶつかった」
「あなたが正面で止めろと言った」
「だから、レイは受け切れなかった」
ナギは端末の縁を握った。
手袋が軋む。
右側に人が一人いれば、全速力のミオは避けきれない。
固定する位置が半歩ずれれば、レイの背後へ攻撃が抜ける。
二人は、ナギが告げた距離と位置へ迷わず動く。
その速さが、今は怖かった。
「ナギ」
レイが呼ぶ。
フアンネルのアンテナから、黒い光弾が放たれた。
レイが前へ出る。
両腕を交差して受け止めた。
マゼンタの装甲から火花が散る。
レイの靴底が十センチ下がった。
「指示をください」
ナギはバイザーの警告を見た。
まだ二十六件ある。
「あと十秒ください」
「その十秒で、誰かが倒れたら?」
フアンネルのアンテナが再び黒く光る。
レイが構え直した。
ミオは走り出せるよう腰を落としている。
二人ともナギを見ていた。
「まだ、二人を動かせません」
声に出た。
ナギは口を閉じた。
ミオが床の亀裂を見たまま聞く。
「ナギさん。レイさんの右、何メートルまで空いてる?」
ナギは警告ではなく、通路を見た。
レイの右側。
黄色い誘導帯まで八メートル。
人はいない。
柱もない。
床の強度は確認済み。
黄色い誘導帯の先は柱で見えない。
「八メートルです」
答えたあと、ナギの指が端末から離れた。
フアンネルが首を傾ける。
「九メートル先は?」
ナギは黄色い誘導帯を見る。
そこから先は、まだ見えていない。
「八メートルで止めます」
「その先へ行けない」
「止まってから確認します」
ナギは同じ発生時刻の警告を選択した。
二十六件すべてが、十七時三十六分十二秒。
新しい情報は一つもない。
まとめて閉じる。
バイザーに残したのは、通路の実映像、三人の位置、フアンネルの波形だけだった。
ナギは二人を見る。
「レイ。正面で三秒、固定してください」
「できます」
「ミオ。レイの右を八メートル。黄色い誘導帯で停止」
ミオの足首にシアンの光が戻った。
「了解!」
ナギは息を吸った。
「今、動いてください」
レイが正面へ踏み込む。
「センター・グラビティホールド」
マゼンタの固定リングがフアンネルの足元へ広がった。
怪人の両脚が床へ沈む。
「一」
ナギが数える。
ミオが走り出した。
見えている床の亀裂を踏み越える。
レイの右を抜ける。
「本当に?」
フアンネルの声が追う。
バイザーに「床面崩落」の警告が出た。
ナギは通路の実映像を見る。
亀裂はない。
「二」
警告を閉じる。
ミオが黄色い誘導帯で止まった。
靴先は線を越えていない。
柱の向こうに、清掃用のカートが置かれていた。
八メートル先からは見えなかった障害物だ。
「ナギさん、前にカート!」
「確認しました。左へ二メートル」
「三」
ミオが左へ跳ぶ。
同時に、レイの固定リングが揺れた。
フアンネルが右腕を上げる。
背中のアンテナが一斉に開いた。
ナギはアンテナへ照準を合わせる。
「まだ全部見ていない」
「今、切るアンテナは見えています」
ゴールドの照準が重なった。
「スキャン・フェイズロック」
金色の格子がアンテナを固定する。
フアンネルの腕が止まった。
ミオが前腕のブレードを展開する。
「ミオ。正面、二メートル」
「見えた!」
シアンの刃が光る。
「ブレイク・スラッシュライン!」
一閃。
背中のアンテナがすべて切断された。
ナギのバイザーから警告が消える。
床の亀裂も、落ちかけた案内板も消えた。
通路の映像が一つに戻る。
「本当に大丈夫?」
フアンネルの声が細くなる。
ナギはアンテナの波形を確認した。
数値はゼロだった。
「干渉波、停止」
レイが正面へ入る。
三人の胸部エンブレムが光った。
「アークエンジェル・トライアド!」
マゼンタ、シアン、ゴールドの光がフアンネルを包む。
怪人の身体が細かな粒へ崩れた。
「もう一回――」
最後まで言えずに消えた。
⸻
地下通路から、重なっていた声が消えた。
男性が頭上の案内板を見て、そのまま階段へ進む。
買い物袋の女性も、端末を閉じて歩き出した。
ナギの前にいた灰色のコートの女性が、黄色い線の内側から出る。
「あの、東改札は……」
ナギは頭上の案内板を一度見た。
「黄色い案内板まで直進してください」
通路の先を指す。
「そこで右へ曲がったら、次の表示を見てください」
「この道で、本当に大丈夫ですか?」
ナギは黄色い案内板までの床を見る。
人はいない。
障害物もない。
「あの案内板までは、この道です」
女性は案内板を見た。
「分かりました」
一歩目を出す。
二歩目。
今度は止まらない。
黄色い案内板まで進み、右へ曲がった。
ナギは追わなかった。
レイがバックルへ手を当てる。
「ARK SUIT――DISENGAGE」
三人の装甲が光の粒となり、バックルへ戻った。
黒いフィールドスーツが消え、三人は白いジャケット姿へ戻る。
ナギは端末を開いた。
時刻は十七時四十八分。
画面には「十七時四十二分 発車済み」と表示されている。
その下に「十八時十二分 快速」。
ミオが横から画面をのぞいた。
「快速、行っちゃった?」
「六分前に出ました」
「じゃあ、カレー食べられるね」
ナギは駅へ続く通路を見る。
次に端末の十八時十二分を見る。
店までは歩いて三分。
「二十四分あります」
ミオが笑った。
「それ、カレーって意味?」
「時間を言っただけです」
レイが歩き出す。
「ジンが残しているはずです」
ナギも二人の後を歩いた。
⸻
喫茶「はり」。
三人が扉を開けると、ジンが鍋の火を強めた。
「遅い」
「怪人がいたの!」
ミオがいつもの席へ座る。
ナギは壁の時計が見える席を選んだ。
十七時五十二分。
ジンがミオとナギの前へカレーを置いた。
レイの前にはコーヒー。
カレーの湯気がナギの眼鏡へ当たる。
ミオが先にスプーンを持った。
「辛さ、確認する?」
ナギはカレーを見た。
ジンを見る。
口を開きかけて、閉じた。
スプーンですくい、一口食べる。
香辛料の辛さが舌に広がった。
ナギの手が止まる。
眼鏡の奥で、目が細くなった。
ジンが水を置く。
「辛いです」
「確認できたな」
ミオが吹き出す。
「それ、私が言われるやつ!」
ナギは水を一口飲んだ。
端末が点灯する。
十八時十二分の快速まで、十八分。
ナギは残り時間を見た。
画面を伏せる。
もう一度、カレーをすくった。
「辛いんでしょ?」
ミオが聞く。
「辛いですが、食べられます」
ナギは二口目を食べた。
湯気で眼鏡が白く曇る。
「ナギさん、前見えてる?」
ナギは眼鏡を外し、布で拭いた。
「見えていません。今は、カレーしか見えません」
ジンは何も言わず、ナギの水を足した。
窓の外では、駅へ向かう人たちが同じ方向へ歩いていた。
黄色い案内表示の前で、立ち止まる人はいなかった。
