昼。
高層モール。
吹き抜けの天窓から、日差しが一階のイベント広場まで届いていた。
二階の電器店前で、ミオはスポーツ用品店の手提げ袋を持って立っている。
腰のベルトから下がるシアンの帯が、足元で小さく揺れていた。
隣にはレイがいる。
店内では、ナギが二本のケーブルを見比べていた。
ミオは吹き抜けの時計を見る。
十三時二十七分。
右の踵が、床を二度叩いた。
「ナギさん、まだかな」
「二本まで絞ったそうです」
「二本になってから長くない?」
「端子と長さは同じですが、被覆の厚さが違います」
ミオがレイを見る。
「詳しいね」
「さっき説明されました」
店内のナギが、片方のケーブルを曲げて戻り方を確かめている。
ミオの踵がまた鳴った。
「どっちでも使えるなら、早い方でいいのに」
ナギがガラス越しに顔を上げた。
「選ぶ速さではなく、通信の安定性で決めます」
「聞こえてた」
「聞こえる距離です」
ナギは二本を持ったまま、また表示を見比べた。
前方で、男性が歩行者を追い越した。
肩がぶつかる。
ぶつかられた女性の手から、小さな商品箱が落ちた。
男性は一度だけ振り返った。
「すみません。急いでるので」
箱を拾わず、そのまま先へ進んだ。
別の女性が、閉まりかけたエレベーターへ走る。
扉の前にいた人たちも、一斉に乗り込もうとした。
誰かの手提げ袋が扉に挟まり、警告音が鳴る。
ミオは床の商品箱を拾った。
「落としましたよ」
「ありがとうございます」
女性へ渡し、その横を抜ける。
一歩。
二歩。
ミオの歩く速度が上がった。
「ミオ」
レイに呼ばれ、足を止める。
「なに?」
「どこへ行くんです?」
ミオは前を見た。
行く店は決めていない。
待ち合わせの時刻もない。
それでも、心臓だけが速く打っていた。
右足が、また半歩前へ出る。
「……分かんない」
手提げ袋の持ち手を握り直す。
「でも、ここにいたら遅れる気がする」
「何にです?」
「それも分かんない」
通路を走る靴音が増えた。
前の人を抜き、ぶつかり、急に止まる。
店内にいたナギも通路を見た。
二本のケーブルを棚へ戻し、二人のところへ来る。
「ナギさん」
「上の階でも走っている人が増えています」
ナギが端末を開く。
「転倒が三件。エレベーターの挟み込み警告が二件です」
吹き抜けの下から、甲高い声が響いた。
「遅い!」
三人が一階を見る。
イベント広場の中央に、黒い怪人が立っていた。
細い身体。
背中には、時計の針のような赤い突起が二本伸びている。
丸い目の中で、光の点が高速で回っていた。
「早く!」
「もっと早く!」
背中の針が一周する。
赤い光が広場を走った。
光が触れた人の足首に、前向きの矢印が浮かぶ。
立っていた人たちが一斉に走り出した。
案内板へ肩をぶつける人。
落とした袋を置いたまま進む人。
母親と手をつないでいた男の子の帽子が、柱の方へ転がった。
男の子が帽子へ手を伸ばす。
母親に腕を引かれ、広場の端へ連れていかれた。
ミオの身体が、手すりの方へ傾く。
「行こう」
三人は階段へ向かった。
⸻
一階、イベント広場。
ミオは手提げ袋を案内カウンターの脇へ置いた。
レイは走ってくる人の前へ立ち、両腕を広げる。
「壁際へ移動してください。中央を空けます」
ナギが端末に広場の見取り図を出した。
「東側の通路は空いています。案内表示に沿って進んでください」
ミオは怪人を見た。
赤い光がまた広がろうとしている。
「人を逃がすより、あれを止めた方が早い」
レイが腰のバックルへ手を当てる。
「両方やります」
ナギが端末を怪人へ向けた。
「周囲に強い焦燥反応。発生源は、あの個体です」
怪人の背中で、二本の針がせわしなく回る。
「仮称、セカセカス」
三人が、セカセカスと人々の間へ並んだ。
「装着します」
三人が構える。
「ARK SUIT――ENGAGE」
黒いバックルが開く。
三人の白いジャケットが光へ変わり、黒いフィールドスーツが全身を包んだ。
胸、肩、前腕、腰、膝、脛。
白い装甲が順番に固定される。
レイの肩と前腕には厚い装甲が展開した。マゼンタのラインが走り、左肩に「CENTER」の表示が灯る。
ミオの膝と足首では高機動ユニットが開いた。シアンのラインが点灯し、右肩と脚部に「BREAK」の文字が浮かぶ。
ナギの肩と前腕で小型センサーが起動する。眼鏡の上へ透明なバイザーが降り、ゴールドの照準が広場を走った。左肩には「SCAN」。
三人の胸部エンブレムが同時に光る。
「アーク・センター、レイ」
「アーク・ブレイク、ミオ!」
「アーク・スキャン、ナギ」
セカセカスは、正面十二メートル先の広場中央にいる。
ミオの右前方には、太い四角柱が一本。
柱の根元には、さっき飛ばされた青い帽子が落ちている。
三人の背後では、母親が男の子の手を引き、東側の通路へ下がっていた。
ミオは腰を落とした。
「私が先に止める!」
一歩目。
二歩目。
三歩目で、足首の高機動ユニットが開く。
「ブレイク・ステップ!」
ミオがセカセカスへ向かって、まっすぐ加速した。
「遅い!」
セカセカスの背中で、二本の針が赤く光る。
赤い矢印がミオの両足首へ絡みついた。
高機動ユニットの出力表示が上がる。
百十パーセント。
百二十パーセント。
ミオの速度が勝手に上がった。
怪人まで六メートル。
その時、ミオの左後ろで、男の子の足首にある赤い矢印が光った。
男の子が母親の手を振りほどいた。
男の子は青い帽子へ向かって走る。
ミオの進路を、左から右へ横切ろうとしていた。
「ミオ! 前に子ども!」
レイの声が飛ぶ。
ミオが男の子を見る。
二人の間は、あと二メートル。
ミオは右足を床へ打ちつけた。
ブーツの踵から火花が散る。
身体を左へずらし、男の子の手前で止まった。
シアンの光が、男の子の前を横切る。
青い帽子をつかんだ男の子が、風を受けて尻もちをついた。
ぶつかってはいない。
レイが後ろから追いつき、ミオと男の子の間へ入った。
「怪我は?」
男の子は首を横へ振る。
セカセカスが右腕を上げた。
「止まった!」
赤い光弾が、男の子へ飛ぶ。
レイは男の子を背中へ隠し、左腕を上げた。
光弾が、マゼンタの前腕装甲へ当たる。
火花が散った。
レイは男の子をかばったまま、半メートル後ろへ滑る。
「レイさん!」
「負傷はありません」
レイは男の子を立たせ、三歩後ろにいた母親へ引き渡した。
左の前腕装甲には、黒い傷が残っている。
ミオは自分の止まった足を見る。
次に、レイの傷を見た。
自分が止まった直後に、レイが攻撃を受けた。
「一秒遅い!」
セカセカスの目の光が回る。
「一秒止まった!」
ミオは右足を引き、もう一度走る姿勢になった。
前腕のブレードを開く。
「次は止まらない」
「ミオ」
ナギの声が飛ぶ。
「足首ユニット、百三十八パーセント。その速度では急に曲がれません」
「曲がれる!」
セカセカスが四角柱の左側へ走った。
柱を盾にして、ミオの視界から外れる。
ミオは床を蹴った。
高機動ユニットが最大出力で開く。
柱の左端へ向かって一直線に走った。
柱の向こうから、セカセカスが姿を見せる。
ミオは怪人を追って、柱の角に沿って左へ曲がろうとした。
だが、身体は前へ進み続けた。
左足が床を擦る。
曲がり切れない。
ミオは両腕を顔の前へ上げた。
白い前腕装甲が、柱の角をかすめる。
火花が散った。
柱の脇に立っていた案内板が倒れる。
案内板の上端が柱に引っかかり、斜めになったまま通路を塞いだ。
ミオはセカセカスの横を通り過ぎた。
「遅い!」
怪人の声が背後へ遠ざかる。
ミオは六メートル先で止まり、振り向いた。
倒れた案内板が、ミオと怪人の間を塞いでいる。
案内板の脚が当たり、床のタイルも三枚割れていた。
セカセカスがミオへ向き直る。
その正面へ、レイが踏み込んだ。
「センター・グラビティホールド」
マゼンタの固定リングが、セカセカスの両足を囲む。
怪人の足が床へ沈み、動きが止まった。
レイは両手で怪人の肩をつかむ。
「ミオ。いったん止まってください」
「止まったら、またレイさんが受ける!」
言葉が口から飛び出した。
ミオは、レイの左腕から目をそらす。
セカセカスが肩を振る。
固定リングに一本、亀裂が入った。
それでも、レイの足は動かない。
「私が怪人を止めています」
レイはセカセカスをつかんだまま言う。
「ミオは、走る道を見てください」
「でも、さっきは私が止まったから――」
「子どもが前へ出たから止まりました」
レイの声は変わらない。
「ぶつからずに止まれました。子どもの前で止まった判断は正解です」
ミオは東側の通路を見る。
男の子は母親の後ろで、青い帽子を胸に抱えている。
泣いていない。
怪我もない。
ミオは一度、息を吐いた。
ナギは広場の端から、ミオとセカセカスの間へバイザーを向けた。
「怪人まで、正面は六メートルです」
ゴールドの線が、倒れた案内板の上を通る。
「案内板と割れた床を越えるため、途中で減速が必要です」
もう一本のゴールドの線が、右側の四角柱を大きく回る。
「右回りは九メートル。障害物も人もいません」
「三メートル遅い!」
セカセカスが叫ぶ。
赤い矢印が、ミオの足首を前へ引いた。
正面の道は短い。
だが、倒れた案内板が胸の高さまで斜めに浮いている。
その下では、割れたタイルが重なっていた。
ミオの右足が浮く。
正面へ出しかけた足だった。
ミオは踵を床へ戻した。
倒れた案内板を見る。
割れた床を見る。
次に、右側の白い床を見る。
「ナギさん。右は、柱の先まで空いてる?」
「空いています。怪人の右後ろまで、何もありません」
「分かった」
ミオは身体ごと右へ向けた。
「右から行く」
「三メートル遅い!」
ミオはセカセカスを見た。
「三メートル長くても、止まらず走れる!」
一歩目で、右へ進む。
二歩目で、四角柱の外側へ入る。
三歩目で、高機動ユニットを開く。
「ブレイク・ステップ!」
ミオが加速した。
まず、右へ三メートル。
倒れた案内板の外側を抜ける。
次に、四角柱を大きく回る。
最後は、セカセカスの右後ろまで一直線。
赤い矢印が足首を引く。
「もっと速く!」
ミオは速度を上げない。
ナギが示したゴールドの線だけを見る。
柱を越える。
セカセカスの右後ろが開いた。
ナギのバイザーに、赤い波形が浮かぶ。
「背中の針が、1.6秒ごとに赤い光を出しています」
二本の針が、また光り始めた。
「次の光まで、0.4秒」
ゴールドの照準が、二本の針へ重なる。
「スキャン・フェイズロック」
金色の格子が、針へ巻きついた。
高速で回っていた針が止まる。
「ミオ、今です」
ミオは右腕のブレードを振り上げた。
「速いだけじゃ、たどり着けない!」
「ブレイク・スラッシュライン!」
シアンの刃が、二本の針を横に切る。
針が根元から折れ、床へ落ちた。
広場を覆っていた赤い光が消える。
人々の足首から、赤い矢印が剥がれ落ちた。
「遅い……もっと……」
セカセカスの声が細くなる。
レイが両手に力を込めた。
固定リングが怪人の腰まで上がり、全身を止める。
三人の胸部エンブレムが光った。
「アークエンジェル・トライアド!」
三人の胸から、マゼンタ、シアン、ゴールドの光が放たれる。
三本の光が、セカセカスの胸で重なった。
怪人の黒い身体が細かな粒へ崩れ、そのまま消えた。
⸻
イベント広場に、別々の足音が戻った。
走っていた男性が速度を落とす。
案内板へぶつかりかけた女性が、その手前で立ち止まる。
落とした袋を拾う人。
後ろの人へ道を譲る人。
さっきの男の子が、ミオの前まで歩いてきた。
帽子を両手で持っている。
ミオは片膝をつき、男の子と目の高さを合わせた。
「さっき、怖かった?」
男の子がうなずく。
「風が、ばって来た」
ミオは自分のブーツを見た。
「ごめん。ぶつかるところだった」
男の子は帽子をかぶり直した。
「でも、止まった」
ミオは男の子の膝と腕を見る。
擦り傷はない。
「うん。止まれてよかった」
母親が男の子の手を取る。
「ありがとうございました」
「次は帽子が飛んでも、一人で戻らないでね」
「うん」
二人が東側の通路へ歩いていく。
ナギのバイザーから赤い波形が消えた。
「周囲の焦燥反応、正常値です。負傷者はいません」
レイがバックルへ手を当てる。
「ARK SUIT――DISENGAGE」
三人の装甲が光の粒となり、バックルへ戻る。
黒いフィールドスーツが消え、三人は白いジャケット姿へ戻った。
ミオはすぐにレイの左腕を見た。
白いジャケットの袖に破れはない。
「レイさん、腕」
レイが左腕を曲げ伸ばしする。
「動きます」
ナギが端末を向けた。
「負傷なし。装甲の表面損傷だけです」
「よかった」
ミオの肩が下がった。
レイがミオを見る。
「最初に止まった時も、今の道を選んだ時も、誰にもぶつかっていません」
「でも、レイさんが攻撃を受けた」
「私は受け止めるために前へ出ました」
レイは左腕をもう一度上げる。
「次も、前に人がいたら止まってください」
ミオは男の子が歩いていった通路を見る。
「……分かった」
ナギが端末へ二本の走行記録を出した。
「柱へ直進した時は、停止まで4.2秒」
次の記録へ切り替える。
「右回りは三メートル長く、2.9秒です」
ミオが画面をのぞく。
「遠い方が早い」
「途中で止まらなかったからです」
「数字で出されると悔しい」
ミオは案内カウンター脇の手提げ袋を取った。
三人は二階の電器店へ戻る。
⸻
電器店。
ナギは、さっきの二本のケーブルが並ぶ棚へ戻った。
片方を取る。
今度は比べず、そのまま会計端末へ向かった。
ミオが目を丸くする。
「もう決まったの?」
「怪人が現れる前に決めていました」
「じゃあ、なんで棚に戻したの?」
「館内の異常を確認したからです」
「そっか」
ナギが会計を終え、三人はモールを出た。
駅へ続く歩道。
前方の歩行者信号が点滅を始める。
ミオの右の踵が上がった。
横断歩道まで十メートル。
走れば間に合う。
手提げ袋の中で、買ったランニングシューズの箱が揺れた。
ミオは横を見る。
レイは走っていない。
ナギもケーブルの袋を持ち、同じ速さで歩いている。
信号がもう一度点滅した。
ミオは踵を下ろした。
「次でいいか」
レイが隣に立つ。
「はい」
ナギも追いつく。
「走れば間に合いました」
「ナギさん、そういうこと言う?」
「距離を確認しただけです」
信号が赤になる。
三人は白線の手前で待った。
車が通り過ぎる。
ミオは信号だけを見ず、左右の車線を見た。
やがて、信号が青に変わる。
左から来る車が止まる。
右の車も停止線で止まる。
ミオはそれを見てから、一歩目を出した。
レイとナギも並んで歩き出す。
三人は同じ青信号で、横断歩道を渡った。
