閉じる前に
地下第四区画の搬入口では、救助作業が続いていた。
天井近くを走る冷却管の一部が破損し、白い排気が断続的に噴き出している。
床には冷却水が薄く広がり、赤い非常灯がその表面で揺れていた。
事故は、この区画に限られている。
隣接区画の電力も交通も生きている。
正常に動き続けるARK CITYの地下で、ここだけが切り離されかけていた。
搬入口の奥では、大型の遮断板が半分まで降りた状態で止まっている。
閉じ切らない。
だが、開きもしない。
搬入口脇の補助支柱の一本が事故で外れ、折れ曲がった先端を遮断板のガイドへ食い込ませていた。
支柱を取り除けば、遮断板は再び動く。
だが今は、その噛み込みが遮断板を半開きの位置に留めている。
その隙間が、区画内に残された作業員たちの唯一の退出路だった。
遮断板の外側――安全側に、一機の大型フレームが立っている。
遮断板を背にして、搬入口の外側を向いていた。
白灰色の厚い外装。
幅の広い肩。
背部へ折り畳まれた二本の支持アーム。
両腕には、梁や重量物を保持するための大型保持爪。
腰部と脚部には、倒壊現場で巨体を安定させる補助支持脚。
胸部に刻まれた機体識別名。
FRAME-07 BASTION
バスティオン。
戦うための機体ではない。
崩れた梁を持ち上げる。
倒壊しかけた構造を支える。
避難路を確保する。
必要なら自らを仮設支保として固定し、人が通る時間を作る。
取り残された者を帰す。
そのための人命保護型都市作業フレームだった。
細いバイザー型センサーは青白く発光している。
搬入口脇の補助盤には、緑色の表示が並んでいた。
PRIMARY FUNCTION: RESCUE(主機能:救助)
HUMAN SAFETY: FIRST(人員安全:第一優先)
ROUTE KEEP PRIORITY(通路維持優先)
バスティオンは左腕を頭上へ伸ばし、傾いた上部梁を支えていた。
右腕では、床へ落ちた外板を避難経路の外へ押し退けている。
動きは速くない。
必要な場所へ、必要な力だけを加えていた。
奥の作業通路から無線が届く。
『こちら保守班。残留三名。一名、右脚を負傷。二名で支えて移動中』
バスティオンの頭部センサーが背後へ向く。
半開きの遮断板下に残る開口と、区画内の設備センサーから三人の位置を確認する。
三人はまだ搬入口へ向かっている途中だった。
遮断板の下には、人が一人ずつ通れるだけの隙間が残っている。
三人がそこへ到達するまで、噛み込んだ補助支柱には触れない。
救助機としては、それが正しい。
そのときだった。
補助盤の認証ラインが、一瞬だけ白く飽和した。
警報は鳴らない。
画面の端へ短い文字列が流れる。
EXTERNAL AUTHENTICATION ACCEPTED(外部認証受理)
EMERGENCY INFRASTRUCTURE AUTHORITY: ACCEPTED(都市基盤緊急権限:受理)
都市基盤緊急権限。
局所的な救助を続けることで、より広い範囲へ重大な被害が及ぶと判断された場合にのみ使用される上位権限だった。
本来から存在する、安全のための仕組み。
表示が切り替わる。
破損した冷却系統からの冷却媒体拡散予測。
隣接設備への影響。
区画開放を続けた場合の二次損傷予測。
残留三名の退出予測。
最後に、一行。
EVACUATION ETA: EXCEEDS ISOLATION LIMIT(避難完了予測:隔離限界超過)
緑色の表示が消えた。
代わって赤い文字が現れる。
DISTRICT ISOLATION: FIRST(区画隔離:第一優先)
HUMAN SAFETY: SECONDARY(人員安全:第二優先)
バスティオンの動きが止まった。
頭部センサーが背後の遮断板へ向く。
青白いバイザー光が消えた。
赤い光が点く。
機体は壊れていない。
救助機能も失っていない。
正規形式の上位権限によって、判断の順番だけが変わった。
三人が出てくるまで待つ。
その時間を残すより、今すぐ区画を閉じた方が予測される総被害は小さい。
それが、新しい優先順位の答えだった。
バスティオンの左腕が、上部梁から離れた。
支えを失った梁がわずかに沈む。
損傷した固定部が軋み、頭上へ低い金属音が走った。
それでも、まだ落ちない。
残った固定部だけで辛うじて重量を受けている。
救助経路の維持は、もう第一優先ではなかった。
バスティオンが上体をわずかにひねる。
右腕が背後へ回った。
遮断板のガイドへ噛み込んでいる補助支柱。
保持爪の丸い保護パッドが収納され、瓦礫撤去用の圧砕部が露出した。
『FRAME-07、待て』
保守班の声が飛ぶ。
『補助支柱はまだ外すな。三人が通るまで経路を維持しろ』
バスティオンは受信した。
認識もしている。
それでも右腕を止めない。
命令を無視したのではない。
第二優先へ落とした。
補助支柱を外す。
遮断板の駆動を復旧させる。
三人の退出完了を待たず、区画を閉じる。
その方が全体の安全性は高い。
圧砕部が、歪んだ補助支柱へ伸びた。
*
地下第四区画へ続く連絡路を、二人の成人女性が進んでいた。
先を行くのは漆黒。
長い黒髪を低い位置で束ね、黒と金のロングコートをまとっている。
その後ろを紫電が追う。
肩に届くか届かない程度の銀紫の髪。
黒と紫の軽量機動服。
指ぬきグローブから覗く指先には、まだ紫雷はない。
壁面の非常スピーカーから、保守班の通信が流れていた。
『残留三名。負傷者一名。搬入口へ移動中』
続いて、低い金属音が響く。
紫電の身体が反射的に前へ出た。
「先に行く」
「待て」
足が止まる。
紫電が振り返った。
「三人残ってる」
「分かっている」
「だったら急がないと」
「急ぐ。だが、今は入るな」
「何が違うの」
「先に状況を見る」
紫電は口を閉じた。
また金属音。
今度は近い。
二人が搬入口へ続く角を抜ける。
赤い非常灯の向こうに、白灰色の巨体が見えた。
こちらへ正面を向けたバスティオン。
その右腕だけが、背後の遮断板へ回り込んでいる。
紫電の視線が動いた。
「あれ、外そうとしてる?」
「ああ」
「外したら遮断板が動くよね」
「ああ」
紫電が巨体の向こうを見る。
三人の姿はまだない。
「まだ向こうだよ」
「だから止める」
紫電の視線が漆黒へ戻る。
「バスティオンを?」
「閉じるまでの時間を作る」
一拍。
紫電の肩からわずかに力が抜けた。
「……それなら分かる」
漆黒は搬入口を見たまま言う。
「道を残す」
そして、紫電へ視線だけを向けた。
「お前は、そのあとだ」
閉じる。
紫電はその言葉が嫌いだった。
道がなくなる。
選べなくなる。
まだ向こう側に人がいるのに、こちら側から答えを決められる。
本当なら、もう走り出していた。
だが、勢いだけで入れば自分まで救助路を塞ぐ側になる。
紫電は右手を一度握った。
「何秒?」
「作る」
「数字で」
「必要なだけだ」
「そういうとこだよ」
それでも、紫電の口元がほんの少し緩んだ。
行くなとは言われていない。
戻れるようにしてから行け。
それだけだ。
「了解」
*
二人が床に引かれた黄色い停止線を越えた。
バスティオンの頭部センサーが二人を捉える。
補助盤に表示が出た。
ROUTE OBSTRUCTION: TWO(経路障害:二)
「障害物だって」
紫電が言う。
「今の優先順位なら正しい」
「そこは否定して」
バスティオンは補助支柱から右腕を離した。
先に、封鎖処理を妨げる二人への対応を選んだ。
圧砕部が横へ開く。
対人兵器ではない。
だが、搬入口へ近づかせないには十分な質量だった。
紫電が腰を落とす。
足元に細い紫雷が走る。
「いつも通り?」
「止める」
「私は届く」
バスティオンの右腕が横薙ぎに振られた。
「右」
紫雷が一瞬だけ弾ける。
紫電の身体が横へ加速した。
漆黒は動かない。
片手を静かに前へ出す。
影が本人より半拍遅れた。
空気が重くなる。
バスティオンの右腕が、漆黒へ届く直前に鈍った。
完全停止ではない。
加速だけが削られる。
振り抜かれる軌道が数十センチ沈む。
紫電には十分だった。
腕の内側へ潜る。
床。
壁面の補強材。
倒れた外板。
三つの短い接地点をつなぎ、巨体の右脇へ抜ける。
バスティオンの補助支持脚が展開した。
紫電の進路へ一本が降りる。
「そこ」
壁を蹴る。
接地点で紫雷が短く光る。
軌道変更。
補助支持脚の外側へ回り込み、その回転軸へ右手を触れた。
青紫の光が継ぎ目を走る。
一瞬だけ。
壊すためではない。
駆動信号の同期へ、ごく短い乱れを入れる。
補助支持脚の展開が半拍遅れた。
「反応した」
「離れろ」
紫電が即座に手を放す。
表示が更新される。
MOVEMENT ERROR DETECTED(動作誤差検知)
POSTURE RECALCULATION(姿勢再演算)
頭部センサーが後方へ回る。
「もう対策する気?」
「同じ事故を繰り返さないための機体だ」
「今、それが敵に回ってるんだけど」
漆黒は足元を見る。
散乱したボルト。
切断されたレール材。
潰れた工具箱。
剥がれた外板。
左手をわずかに傾けた。
局所的に重力のかかり方がずれる。
軽い金属片や外板が、バスティオンの右脚が降りる側へ滑っていく。
巨体が右脚を上げた。
そのまま踏み越えるつもりだ。
足が降りる瞬間。
黒域が右脚へ集中した。
荷重のかかり方が変わる。
踏み込みが一拍遅れる。
上体だけが先へ流れた。
姿勢制御が反応する。
背面の補助支持脚が大きく開いた。
「今」
「行く!」
紫電が駆ける。
一度目と同じ経路は使わない。
壁。
外板。
バスティオン自身の腕。
足場を次々に変える。
補助支持脚の根元へ再接触。
短い紫雷。
展開中の駆動接点だけを狙う。
保護回路が作動した。
補助支持脚が停止する。
巨体が姿勢を崩した。
だが倒れない。
バスティオンは両腕を床へ突き立てた。
二本の脚。
二本の腕。
四点支持。
残った補助支持脚を収納する。
背面装甲が閉じた。
THREAT PATTERN STORED(脅威パターン記録)
REAR SUPPORT PROTECTION ACTIVE(背面支持保護:作動)
「一回で覚える?」
「救助機だからだ」
「今それを褒める?」
「事実だ」
バスティオンは四点支持の低い姿勢を維持した。
遮断板前の位置は譲らない。
追ってこない。
自分の仕事場から動かず、近づくための経路だけを潰そうとしている。
紫電が再び踏み込もうとした。
その直前。
胸部側面の作業格納部が開いた。
薄い金属製のプレートが複数枚、射出される。
紫電は身構えた。
だが、一枚も身体へ直接向かってこない。
一枚が壁面のケーブルラックを切る。
一枚が細い補助材を落とす。
一枚が床へ浮いていた外板を弾き飛ばした。
「私じゃない」
「足場だ」
漆黒の周囲でも同じだった。
退避に使えそうな壁際の設備。
黒域の外側へ逃げられる隙間。
進路になりそうな薄板。
カッタープレートは、人ではなく、二人が使う場所を先に消していく。
本来は、人が接近できない箇所のケーブルや薄い外装板を切断するための遠隔作業工具。
今は、封鎖処理を妨げる経路の除去に使われている。
紫電は一歩踏み出した。
次に蹴るつもりだった補助材が、目の前で切り落とされる。
足が止まる。
「……読まれた」
反対側へ切り返す。
そこにも一枚。
バスティオンは紫電そのものを追っていない。
紫電がどこを使って次へ進むかを学んでいる。
「嫌な覚え方するなぁ」
「次を変えろ」
「簡単に言う」
さらに一枚。
切断された金属片が跳ねた。
漆黒が首をわずかに動かす。
破片が頬を浅くかすめる。
細い血が一筋だけ残った。
紫電側でも、落ちた薄板の端が肩を浅く裂く。
「っ」
狙われたわけではない。
だが、人命が第二優先へ落ちた環境では、その危険が許容されている。
そのとき。
頭上から低い破断音が響いた。
紫電が見上げる。
先ほどバスティオンが支えを外した上部梁。
残った固定部が、戦闘の振動に耐え切れず裂け始めている。
「上」
最後の固定部が外れた。
巨大な梁が、紫電の進路へ落ちる。
避ければ、バスティオンから離れる。
進めば梁へぶつかる。
漆黒が右手を上げた。
落下速度が不自然に鈍った。
止まってはいない。
大きい。
重い。
長くは持たない。
漆黒の靴底が床へ押しつけられる。
肩がわずかに沈んだ。
「通れ」
紫電は梁の下へ滑り込む。
そして、落下途中の梁へ足を乗せた。
一瞬。
紫雷。
落ちる梁そのものを、新しい足場へ変える。
斜め上へ加速。
バスティオンが記録していない進路。
カッタープレートが空を切った。
紫電の軌道がさらに折れる。
梁。
圧砕部の外縁。
右肩。
危険なものを次々と足場へ変えていく。
紫の残光が巨体の右側を駆け上がった。
背部から残っていたプレートが射出される。
狙いはやはり身体ではない。
右肩の外装。
次に踏める補強材。
そこへ先回りする。
紫電は強引に軌道を変えた。
一度。
二度。
急角度の変更。
右手へ痺れが走る。
それでも巨体の右肩を越え、背面側へ回り込みかけた。
だが、バスティオンが背面装甲を閉じる。
届かない。
紫電は右脇側の床へ着地した。
わずかに乱れる。
ここまで繰り返した加速。
軌道変更。
二度の接触干渉。
蓄積した負荷が、一気に右腕へ返った。
「……っ!」
指先から肘まで強い痺れが走る。
紫電は肩から床へ転がった。
バスティオンの頭部センサーが右へ振れる。
右腕の圧砕部が床へ降りた。
紫電を潰すためではない。
進路を塞ぎ、外側へ押し返すため。
だが、その質量を受ければ結果は同じだった。
漆黒が左手を向ける。
「止まれ」
圧砕部の速度が削られた。
完全には止まらない。
落ちる位置が紫電から外れる。
床が割れた。
衝撃で紫電の身体が浮く。
漆黒が重力の方向をわずかにずらした。
紫電の身体が壊れたラックの陰へ流れる。
「支障は」
紫電は右手を開こうとした。
指が半分しか伸びない。
「痺れてる」
「使うな」
「それは無理」
「精度が落ちている」
「分かってる」
紫電は立ち上がった。
*
その間にも、バスティオンは封鎖処理を続けていた。
だが、最初の手順は進んでいない。
噛み込んだ補助支柱へ接近する。
除去する。
遮断板の正規駆動を戻す。
そのためには、安定した作業姿勢が必要だった。
漆黒と紫電の介入によって、姿勢制御を何度もやり直している。
補助盤へ新しい表示が出る。
GATE RECOVERY PROCEDURE: DELAYED(遮断板復旧手順:遅延)
続いて、
ISOLATION LIMIT: APPROACHING(隔離限界:接近)
非常スピーカーから保守班の声が飛んだ。
『外部優先系がまだ生きている!』
漆黒が顔を上げる。
『FRAME-07の背面中央、整備アクセス内に外部優先系の独立遮断端子がある! そこを遮断できれば、ローカル救助制御へ戻せる可能性がある!』
紫電がバスティオンの背面を見る。
遮断板との間にある、狭い空間。
「背中ね」
『外装越しじゃ無理だ。整備カバーを開けろ。端子は外部優先系とローカル救助系で分かれている。必ず識別を確認してから切れ!』
「注文多いな」
「必要だ」
バスティオンの頭部センサーが搬入口を測る。
遮断板を復旧している時間がない。
別の手段が選択された。
ALTERNATE SEAL METHOD SELECTED(代替封鎖手段選択)
左側の支持アームが、搬入口左側の壁面へ伸びた。
固定。
右側の支持アームは、反対側の固定点へ向けて展開していく。
まだ接続されていない。
脚部ロックが解除された。
バスティオンが、背後の搬入口へ向けてゆっくり重心を移し始める。
背中から遮断板側へ倒れ込み、自らの巨体で通路を塞ぐつもりだった。
紫電が白灰色の巨体を見上げる。
「自分で塞ぐ気?」
「ああ」
補助盤。
BODY SEAL PROCEDURE(機体封鎖手順)
本来なら、自らを仮設支保として固定し、人を逃がすための機能。
今は、その巨体を搬入口の栓へ変えようとしている。
奥から保守班の無線が飛ぶ。
『まだ三人とも中だ! 遮断板下へ移動中!』
バスティオンの背面と遮断板との隙間が、少しずつ狭くなっていく。
紫電が漆黒を見る。
「止められる?」
答えまで、一拍あった。
巨体。
左支持アーム。
接地点。
後方への倒れ込み。
全部は止められない。
「全体は無理だ」
「じゃあ、背中まで行く」
「聞いたな」
「独立遮断端子。整備アクセスの中」
「何を切るか見ろ」
紫電は痺れた右手を見る。
厚い装甲越しには干渉できない。
どこへ電気を流してもいいわけではない。
対象を見つけ、直接触れる必要がある。
「右、使えない」
「左で行け」
「また雑だな」
「行ける」
紫電は漆黒を見る。
この人は、こういう時だけ「できるか」と聞かない。
できると決める。
腹立たしいこともある。
今は少しだけ心強かった。
補助盤。
BODY SEAL: 31%(機体封鎖:三十一パーセント)
紫電が腰を落とした。
「じゃあ」
左手を開く。
「届いてくる」
漆黒の声。
「紫電」
「何」
「戻れ」
紫電の目が細くなる。
「最初から、そのつもり」
紫雷が走った。
*
紫電は傾く巨体の右脇を駆けた。
今度は条件が違う。
バスティオンは後方へ倒れ込み、自分自身を搬入口へ固定することへ制御を集中している。
左側では支持アームが壁面へ固定されている。
右側では、もう一本の支持アームが固定点へ向かって動き続けている。
紫電は右側を選んだ。
右手は使わない。
床を蹴る。
床についているバスティオンの右腕外側へ乗る。
紫雷が接地点で一瞬だけ光った。
上へ。
右肩へ。
さらに背面側へ。
右腕の痺れが着地のたびに響く。
その前を、展開中の右支持アームが横切った。
固定されれば、背面と遮断板との間へ入る道が消える。
避ければ届かない。
紫電はその軌道を見る。
「借りる」
動いている右支持アームへ飛び乗った。
固定点へ伸びていく力を、そのまま足場にする。
身体が背面側へ運ばれる。
固定寸前。
紫電が蹴った。
一瞬の紫雷。
バスティオンの右肩を越える。
巨体と遮断板の間。
狭くなり続ける背面側へ身体を滑り込ませた。
頭部センサーの死角。
左手を背面装甲へつく。
整備アクセス。
閉じている。
右手ならもっと早い。
そう思った瞬間、痺れが右腕を走った。
紫電は左手だけで固定爪を探す。
下端。
冷却戻り線の脇。
見つけた。
指を掛ける。
巨体が揺れた。
背後の遮断板が近い。
固定爪を回せない。
「漆黒!」
搬入口の外側。
漆黒はもう一歩も動いていなかった。
後方へ倒れ込むバスティオンの重心。
左支持アーム。
床についた右腕。
倒れ込む方向。
複数を同時に抑えている。
右手の指先が震えていた。
「一秒」
バスティオンの揺れが減った。
止まったのではない。
紫電の手元がぶれない程度に、一瞬だけ重心変化が鈍る。
「十分」
左手をひねる。
固定爪が外れた。
整備カバーが浮く。
内部。
冷却配管。
駆動線。
複数の制御ケーブル。
その中に、整備識別用の赤い表示。
EXTERNAL PRIORITY BUS
その直下。
ISOLATION TERMINAL
隣には青白く識別されたローカル救助制御系がある。
紫電は手を止めた。
保守班が言っていた通りだった。
間違えれば、バスティオン本来の救助制御まで失う。
機械を支配することはできない。
情報を書き換えることもできない。
できるのは。
直接触れた場所へ。
一瞬だけ。
物理的な電気干渉を与えること。
紫電は左手の指先を、独立遮断端子へ押し当てた。
青紫の光が細く集まる。
「切る」
短い放電。
瞬間的な電位差が端子へ走った。
保護遮断が作動する。
赤い識別灯が消える。
補助盤が明滅した。
EXTERNAL PRIORITY BUS: DISCONNECTED(外部優先系:切断)
EXTERNAL ORDER: LOST(外部命令:喪失)
紫電は即座に手を離す。
「切った!」
「戻れ!」
今度の漆黒の声は強かった。
外部命令は消えた。
だが、すでに後方へ傾いた巨体は止まらない。
質量も慣性も残っている。
そして紫電は、その巨体と遮断板の間にいる。
紫電が背面装甲を蹴った。
一度。
紫雷。
巨体の右側へ。
二度目。
急角度の軌道変更。
着地点がずれる。
三度目は無理だ。
右肩の外側へ抜ける。
床へ飛び出す。
着地。
膝が崩れた。
前へ転がる。
立つ。
漆黒まで、まだ距離がある。
*
漆黒は倒れ続ける巨体を見上げた。
止め切れない。
最初から分かっていた。
だから、止める場所を選ぶ。
搬入口へ倒れ込む軌道だけを外す。
EV-LOCK。
黒域が重心へ集中した。
バスティオンの倒れ込みが一拍だけ伸びる。
漆黒の膝が沈んだ。
足元の床材が軋む。
右肩が下がる。
ここから動けない。
一歩でも外れれば、保持が崩れる。
視線だけが紫電を探す。
白い排気の中。
紫の残光。
外側へ戻ってくる。
まだ遠い。
一瞬だけ、行かせなければよかったという考えが浮かんだ。
危険だから止める。
失う可能性があるから、選ばせない。
その方が簡単だ。
漆黒の指先が震える。
それでも能力を紫電へ向けなかった。
止めるのは紫電ではない。
落ちる巨体だ。
「早く戻れ」
低い声が、白い排気へ消えた。
補助盤が赤から青白へ乱れる。
LOCAL SAFETY CONTROL: RECOVERING(局所安全制御:復旧中)
バスティオンの左腕が動く。
搬入口を塞ぐ方向ではない。
落下しかけた上部梁へ向かう。
保持爪の硬い圧砕部が引っ込み、丸い保護パッドが戻った。
左腕が梁を受ける。
右腕が床を押し、後方への倒れ込みを止める。
左側の支持アームが壁面へ固定されたまま、巨体の姿勢を支える。
右側の支持アームは封鎖用固定を中止し、上部梁の補助支持へ回った。
封鎖する姿勢が、支える姿勢へ変わる。
漆黒が息を吐いた。
バスティオンのバイザーへ青白い光が戻る。
PRIMARY FUNCTION: RESCUE(主機能:救助)
HUMAN SAFETY: FIRST(人員安全:第一優先)
PASSAGE CLEARANCE ACTIVE(通路確保:実行中)
右側の支持アームが上部梁の荷重を受け継ぐ。
固定を確認したバスティオンは、左腕を梁から離した。
上体を半身にひねる。
その左腕を背後の遮断板へ伸ばした。
保持爪を添え、人が一人ずつ通れる隙間を安定させる。
奥から作業員たちが現れた。
一人。
二人。
最後に、二人へ肩を借りた負傷者。
紫電も漆黒の側へ戻ってきた。
右手をかばいながら、遮断板の脇まで走る。
「こっち!」
先頭の作業員が抜ける。
二人目。
最後の負傷者。
足が遮断板の下を越えた。
補助盤へ表示。
SURVIVOR COUNT: 0(残留人員:ゼロ)
RESCUE ROUTE: CLEAR(救助経路:離脱完了)
漆黒の指先から力が抜けた。
紫電がそれを見た。
「戻った」
「見れば分かる」
「心配した?」
「していない」
一拍。
紫電の口元が上がる。
「今の間は?」
「負荷だ」
「はいはい」
漆黒の視線が紫電の右手へ落ちる。
「動くか」
紫電は指を開こうとした。
半分で止まる。
「半分くらい」
「十分じゃない」
「今日はね」
*
バスティオンは動作を終えなかった。
頭部センサーが背後の遮断板を確認する。
次に、ガイドへ噛み込んだ歪んだ補助支柱へ向いた。
紫電の身体がわずかに強張る。
補助盤へ青白い表示。
DISTRICT ISOLATION: REQUIRED(区画隔離:必要)
「また閉じるの?」
「ああ」
バスティオンが上体を半身に回す。
左腕を遮断板へ添えたまま、右腕を噛み込んだ補助支柱へ伸ばした。
最初と同じ動き。
圧砕部が露出する。
紫電の足が反射的に半歩前へ出た。
「止めないの?」
「止める理由がない」
「今は?」
「全員、こちら側だ」
紫電は遮断板の向こうを見る。
もう誰もいない。
バスティオンの圧砕部が補助支柱を掴んだ。
左腕で遮断板の重量を受けながら、右腕で歪んだ部材を少しずつ外側へ曲げる。
低い金属音。
噛み込みが緩む。
もう一度。
補助支柱の先端がガイドから抜けた。
補助盤が更新される。
GATE OBSTRUCTION: CLEARED(遮断板障害:除去)
GATE DRIVE: RESTORED(遮断板駆動:復旧)
遮断板の駆動音が戻った。
バスティオンは保持爪を添えたまま、正規駆動に合わせてゆっくり腕を下げていく。
遮断板が降り始める。
白い排気の向こう側が、少しずつ細くなった。
紫電は黙って見ていた。
遮断板が最後まで降りる。
重い固定音。
DISTRICT ISOLATION: COMPLETE(区画隔離:完了)
HUMAN SAFETY: MAINTAINED(人員安全:維持)
紫電が小さく息を吐いた。
「結局、閉じたね」
「ああ」
「じゃあ、最初の判断も全部間違いじゃなかった?」
漆黒は閉じた遮断板を見る。
「閉じる判断はな」
「順番?」
「そうだ」
紫電はそれ以上聞かなかった。
*
しばらくして、紫電は壁際へ腰を下ろした。
右手を開こうとする。
やはり指は半分しか動かない。
「これはしばらく無理だな」
「使いすぎた」
「誰かさんが一秒しかくれないから」
「必要なだけ渡した」
「そう来ると思った」
漆黒は頬の血を手袋の甲で拭った。
紫電がそれを見る。
「そっちも怪我してる」
「浅い」
「さっき手、震えてたけど」
漆黒の視線が止まった。
「見間違いだ」
「へえ」
紫電は短く笑った。
追及しなかった。
近くでは救助班が三人の状態確認を始めている。
バスティオンは閉じた遮断板の前で、青白いバイザーを灯していた。
補助盤の片隅にだけ、最後の記録が残っている。
EXTERNAL AUTHENTICATION SOURCE: UNKNOWN(外部認証元:不明)
紫電が立ち上がった。
「レプリカ?」
「痕跡はある」
「どこにいるの」
「ここにはいない」
「また幽霊か」
「だから厄介だ」
漆黒が先に歩き出した。
紫電がその横へ並ぶ。
少し進んでから、紫電は一度だけ振り返った。
閉じた遮断板の前で、バスティオンの青白い識別灯だけが静かに点いている。
紫電は前へ向き直った。
二人の足音が、正常に動き続けるARK CITYの地下へ溶けていった。
エピローグ
地下第四区画搬入口において、人命保護型都市作業フレーム FRAME-07 BASTION に対する外部優先制御介入を確認。
機体本体に重大故障なし。
外部認証および都市基盤緊急権限の受理を確認。
認証資格情報は、システム上有効な形式として処理されていた。
同権限により、
HUMAN SAFETY: FIRST(人員安全:第一優先)
から、
DISTRICT ISOLATION: FIRST(区画隔離:第一優先)
への優先順位変更を確認。
当該変更は、損傷区画の継続開放に伴う二次被害リスク低減を目的とした最適化処理と推定。
変更時、区画内残留人員三名。
FRAME-07は当初、遮断板ガイドへ噛み込んだ補助支柱を除去し、正常駆動を復旧させた上で即時区画隔離を行う手順へ移行。
現場へ進入した身元不明の第三者二名の介入により当該手順が遅延したため、機体自体を遮断物として使用する代替封鎖手順へ変更。
介入過程において、救助用遠隔切断工具および構造物撤去機構を経路障害除去へ転用。
背面整備アクセス内の外部優先系独立遮断端子に、保護遮断作動および局所的な電気的干渉痕を確認。
外部優先系切断後、ローカル救助制御へ復帰。
残留人員三名は全員離脱。
その後、FRAME-07は遮断板へ噛み込んだ補助支柱を除去。
人員安全確認後、正規駆動による区画隔離を完了。
監視映像の一部に欠損あり。
身元および公式入域経路を特定できない成人女性二名の介入痕跡を確認。
都市基盤緊急権限の認証資格は有効形式。
ただし、同権限を発行した起点ノードは特定不能。
事案記録名。
GHOST INTERVENTION
――幽霊介入事案。
