整うことは、間違いではなかった。
夜は、前よりよく眠れる。
紫藤澪は、それを素直に良いことだと思っている。
以前は違った。
配信を終えたあとも頭の中のざわつきが消えず、
誰かの何気ない一言が長く残り、
眠る直前までコメント欄を見返してしまうこともあった。
今は、そこまで引きずらない。
FLOWは感情を消すわけではない。
悲しいときは悲しいし、腹が立つときは立つ。
ただ、その波が前より穏やかになった。
立ち上がりが少し遅くなり、
広がりすぎる前に収まる。
それだけで、暮らしはかなり変わった。
朝の光で目が覚める。
コーヒーを淹れる。
配信の準備をする。
東区の小さな部屋は、必要なものだけでできている。
机。
ライト。
マイク。
ヘッドホン。
窓の外には、白峰市の高架とビルが見える。
配信は荒れにくくなった。
前は、少しの言葉の行き違いで流れが濁った。
今は、最後までちゃんと会話が続く。
「前より健全だよね」
そう言う自分の声に、迷いはない。
それは作られた満足ではない。
ちゃんと、自分の実感だった。
それでも。
黒崎玲のことを考えると、
胸の奥に小さなひっかかりが残る。
玲は、FLOWを入れていない。
会議では浮く。
意見は議事録に残る。
けれど、採用はされない。
敵意が向けられているわけではない。
排除されているわけでもない。
ただ、整っていく流れの中で、
玲だけが少し外側にいる。
澪には、それが分かる。
見ていなくても。
報告を受けなくても。
長い時間の中で、そういうことは伝わってしまう。
その夜。
空見橋の上には、少し湿った風が流れていた。
雨はもう上がっている。
路面にはまだ細い反射が残っていて、
街灯と車のライトがゆっくり伸びている。
玲は、いつも通り先にいた。
黒いカーディガンの裾が風に揺れている。
濡れた柵に、指先だけを乗せていた。
澪はその隣に立った。
触れない。
離れない。
それが二人の距離だった。
「私は、今のほうが好き」
澪は空を見たまま言う。
玲はうなずいた。
「それは、いいこと」
否定しない。
そこが少し、苦しい。
玲は、自分の選ばないものを簡単に悪だとは言わない。
だからこそ、澪はまっすぐに自分の立場を置かなくてはいけなくなる。
「あなたも、FLOWを入れればいい」
言ってから、自分でもそれが願いに近い言葉だと分かった。
押しつけではない。
でも、勧めずにはいられない。
玲は首を横に振る。
「私は、迷うのをやめたくない」
風が橋の上を抜ける。
澪は少しだけ視線を落とした。
迷わないほうが楽だ。
迷わないほうが傷つかない。
迷わないほうが、遠回りをしない。
そう思う。
それでも玲は、迷うことを選ぶ。
あえて。
「私は、あなたを救えると思う」
その言葉は、自然に出た。
システムの代弁ではない。
誰かの受け売りでもない。
本当にそう思っている。
玲が楽になればいい。
苦しみが少し減ればいい。
無理に孤立しなくてもよくなればいい。
それは、澪にとってとても単純な願いだった。
一拍おいて、言葉が続く。
「救えないのが、つらい」
声は大きく揺れない。
泣きもしない。
ただ、そのまま事実として置く。
玲は少しだけ目を細めた。
「救われたくないわけじゃない」
澪は顔を上げる。
「でも、迷いは手放さない」
その言葉はやわらかいのに、折れない。
空の高い位置に、今日も白い光がある。
大きくもならない。
近づきもしない。
何の意思表示もない。
ただ、在る。
澪はそれを見上げる。
もし本当に観察なら。
何を見ているのだろう。
整うことか。
迷うことか。
それとも、その間に立ち続けることか。
「見捨てない」
澪はそう言った。
宣言のようでいて、
どこか確認にも近い声だった。
玲は何も言わない。
澪は続ける。
「でも、直さない」
その言葉を言うまでに、少し時間がかかった。
救いたい気持ちは消えない。
整えたほうがいいという考えも変わらない。
それでも、玲を変えることを正しさにはしない。
そこだけは、手放さないと決めた。
玲はようやく、短くうなずいた。
それで充分だった。
何かが解決したわけではない。
立場が近づいたわけでもない。
でも、壊れない。
白峰市は静かだ。
FLOWは多くの人の生活を楽にしている。
その事実を、澪は否定しない。
玲も否定しない。
ただ、同じ正しさの中には立っていない。
風が吹く。
今日も、不規則だ。
澪はポケットの中で手を握る。
玲は柵に触れたまま、空を見ている。
白い光は消えない。
干渉もしない。
答えもくれない。
それでも。
私は、整うことを選ぶ。
あなたは、迷うことを選ぶ。
そして、私たちは並ぶ。
光は消えない。
それでも、私たちは自分で選ぶ。
