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THE OBSERVER         第4話 見捨てない

THE OBSERVER
THE OBSERVER         第4話 見捨てない

整うことは、間違いではなかった。

夜は、前よりよく眠れる。

紫藤澪は、それを素直に良いことだと思っている。

以前は違った。
配信を終えたあとも頭の中のざわつきが消えず、
誰かの何気ない一言が長く残り、
眠る直前までコメント欄を見返してしまうこともあった。

今は、そこまで引きずらない。

FLOWは感情を消すわけではない。

悲しいときは悲しいし、腹が立つときは立つ。
ただ、その波が前より穏やかになった。

立ち上がりが少し遅くなり、
広がりすぎる前に収まる。

それだけで、暮らしはかなり変わった。

朝の光で目が覚める。
コーヒーを淹れる。
配信の準備をする。

東区の小さな部屋は、必要なものだけでできている。

机。
ライト。
マイク。
ヘッドホン。

窓の外には、白峰市の高架とビルが見える。

配信は荒れにくくなった。

前は、少しの言葉の行き違いで流れが濁った。
今は、最後までちゃんと会話が続く。

「前より健全だよね」

そう言う自分の声に、迷いはない。

それは作られた満足ではない。
ちゃんと、自分の実感だった。

それでも。

黒崎玲のことを考えると、
胸の奥に小さなひっかかりが残る。

玲は、FLOWを入れていない。

会議では浮く。
意見は議事録に残る。
けれど、採用はされない。

敵意が向けられているわけではない。
排除されているわけでもない。

ただ、整っていく流れの中で、
玲だけが少し外側にいる。

澪には、それが分かる。

見ていなくても。
報告を受けなくても。

長い時間の中で、そういうことは伝わってしまう。

その夜。

空見橋の上には、少し湿った風が流れていた。

雨はもう上がっている。
路面にはまだ細い反射が残っていて、
街灯と車のライトがゆっくり伸びている。

玲は、いつも通り先にいた。

黒いカーディガンの裾が風に揺れている。
濡れた柵に、指先だけを乗せていた。

澪はその隣に立った。

触れない。
離れない。

それが二人の距離だった。

「私は、今のほうが好き」

澪は空を見たまま言う。

玲はうなずいた。

「それは、いいこと」

否定しない。

そこが少し、苦しい。

玲は、自分の選ばないものを簡単に悪だとは言わない。
だからこそ、澪はまっすぐに自分の立場を置かなくてはいけなくなる。

「あなたも、FLOWを入れればいい」

言ってから、自分でもそれが願いに近い言葉だと分かった。

押しつけではない。
でも、勧めずにはいられない。

玲は首を横に振る。

「私は、迷うのをやめたくない」

風が橋の上を抜ける。

澪は少しだけ視線を落とした。

迷わないほうが楽だ。
迷わないほうが傷つかない。
迷わないほうが、遠回りをしない。

そう思う。

それでも玲は、迷うことを選ぶ。

あえて。

「私は、あなたを救えると思う」

その言葉は、自然に出た。

システムの代弁ではない。
誰かの受け売りでもない。

本当にそう思っている。

玲が楽になればいい。
苦しみが少し減ればいい。
無理に孤立しなくてもよくなればいい。

それは、澪にとってとても単純な願いだった。

一拍おいて、言葉が続く。

「救えないのが、つらい」

声は大きく揺れない。
泣きもしない。

ただ、そのまま事実として置く。

玲は少しだけ目を細めた。

「救われたくないわけじゃない」

澪は顔を上げる。

「でも、迷いは手放さない」

その言葉はやわらかいのに、折れない。

空の高い位置に、今日も白い光がある。

大きくもならない。
近づきもしない。
何の意思表示もない。

ただ、在る。

澪はそれを見上げる。

もし本当に観察なら。
何を見ているのだろう。

整うことか。
迷うことか。
それとも、その間に立ち続けることか。

「見捨てない」

澪はそう言った。

宣言のようでいて、
どこか確認にも近い声だった。

玲は何も言わない。

澪は続ける。

「でも、直さない」

その言葉を言うまでに、少し時間がかかった。

救いたい気持ちは消えない。
整えたほうがいいという考えも変わらない。

それでも、玲を変えることを正しさにはしない。

そこだけは、手放さないと決めた。

玲はようやく、短くうなずいた。

それで充分だった。

何かが解決したわけではない。
立場が近づいたわけでもない。

でも、壊れない。

白峰市は静かだ。

FLOWは多くの人の生活を楽にしている。
その事実を、澪は否定しない。
玲も否定しない。

ただ、同じ正しさの中には立っていない。

風が吹く。

今日も、不規則だ。

澪はポケットの中で手を握る。
玲は柵に触れたまま、空を見ている。

白い光は消えない。
干渉もしない。
答えもくれない。

それでも。

私は、整うことを選ぶ。
あなたは、迷うことを選ぶ。

そして、私たちは並ぶ。

光は消えない。
それでも、私たちは自分で選ぶ。