その光は、何もしなかった。
少なくとも、誰かを傷つけたわけではない。
何かを壊したわけでもない。
それとは別に、街は少しずつ整っていた。
事故は減った。
怒鳴り声も減った。
会議は短くなり、結論は早く出る。
それは、良いことだった。
白峰市は、以前より静かな街になっていた。
感情安定・行動補助アプリ「FLOW」は、今では珍しいものではない。
強制ではない。
けれど、多くの人が当たり前のように使っている。
眠る前の通知を減らす。
感情が荒れそうな言葉を、一度止める。
予定や移動の流れを整える。
人が衝動で動き出す前に、ほんの少し呼吸を置かせる。
紫藤澪は、FLOWを入れている。
よく眠れる。
SNSも、配信のコメント欄も、前より荒れにくい。
言葉のぶつかり合いも、少なくなった。
「前より、生きやすい」
それは本心だった。
黒崎玲は、FLOWを入れていない。
理由を聞かれたことは何度もある。
そのたびに、答えはだいたい同じだった。
「迷いが短くなりすぎるから」
理解されることは少ない。
強く否定されることも、あまりない。
ただ、少しだけ浮く。
その日もそうだった。
白峰市中央区の会議室で、玲は手を挙げた。
「長い目で見ると、人の迷い方や選び方の幅が痩せる可能性があります」
一瞬だけ、部屋が静かになった。
否定はない。
だが、採用もされない。
議事録には残る。
それだけだ。
会議は次の議題へ進む。
滑らかに。
合理的に。
何事もなかったように。
玲はその空気に慣れていた。
慣れているだけで、楽ではなかった。
夜。
環状線沿いの空見橋は、雨上がりの湿り気を残していた。
路面は街灯を反射し、遠くのビル群は少し滲んで見える。
澪が先に立っていた。
黒いパーカーのポケットに手を入れたまま、白い息をひとつ吐く。
玲が隣に立つ。
触れない。
離れない。
それが二人の距離だった。
澪が言った。
「今日も浮いてた」
責める声ではない。
ただ、確かめるような言い方だった。
玲は肩をすくめる。
「見てないでしょ」
「見てない」
少し間がある。
「でも、分かる」
長い時間を共有した人間には、そういう瞬間がある。
言葉の前に、顔や呼吸で伝わってしまうことがある。
玲はそれ以上言わなかった。
否定しても意味がないと思った。
そのとき、澪が空を見上げた。
「……あれ」
玲も視線を上げる。
高い位置に、白い点があった。
星より少し大きい。
飛行機のようには流れない。
ドローンのような音もしない。
ただ、そこにある。
澪は目を細める。
「最近、よく見る気がする」
玲は答えない。
白い点は揺れず、瞬かず、何の主張もせずに空に浮かんでいた。
近づいてくる気配もない。
遠ざかる気配もない。
ただ、在る。
「害はないと思う」
澪が静かに言う。
玲は少し遅れて答えた。
「何もしないものほど、見逃される」
澪は玲を見る。
「見逃すほど、悪いものかな」
「分からない」
玲は空を見たまま言う。
「分からないものに、すぐ意味を与えたくない。害がないとも、まだ決めたくない」
風が吹く。
街は整っている。
信号は正確に切り替わる。
人は衝突を避け、夜の光は静かに揺れる。
それでも、風だけは一定にならない。
澪はもう一度、空を見上げる。
「観察、って感じだね」
冗談のような声だった。
けれど、玲は笑わなかった。
「何を?」
「私たち」
澪はそう言ってから、自分でも少し不思議そうな顔をした。
玲は白い点から目を離さない。
もし本当に見られているのだとしても。
もし本当に、何かに観察されているのだとしても。
整うのも。
迷うのも。
立ち止まるのも。
進むのも。
選ぶのは、自分だ。
白い点は何もしない。
それでも人は、何もしないものを見上げる。
見上げたあとで、また選ぶ。
澪はポケットの中で手を握り、玲は濡れた柵に指先を置いた。
触れない。
離れない。
光は消えない。
それでも、私たちは自分で選ぶ。
