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THE OBSERVER         第1話 浮いていた日

THE OBSERVER
THE OBSERVER         第1話 浮いていた日

その光は、何もしなかった。

少なくとも、誰かを傷つけたわけではない。
何かを壊したわけでもない。

それとは別に、街は少しずつ整っていた。

事故は減った。
怒鳴り声も減った。
会議は短くなり、結論は早く出る。

それは、良いことだった。

白峰市は、以前より静かな街になっていた。

感情安定・行動補助アプリ「FLOW」は、今では珍しいものではない。
強制ではない。
けれど、多くの人が当たり前のように使っている。

眠る前の通知を減らす。
感情が荒れそうな言葉を、一度止める。
予定や移動の流れを整える。
人が衝動で動き出す前に、ほんの少し呼吸を置かせる。

紫藤澪は、FLOWを入れている。

よく眠れる。
SNSも、配信のコメント欄も、前より荒れにくい。
言葉のぶつかり合いも、少なくなった。

「前より、生きやすい」

それは本心だった。

黒崎玲は、FLOWを入れていない。

理由を聞かれたことは何度もある。
そのたびに、答えはだいたい同じだった。

「迷いが短くなりすぎるから」

理解されることは少ない。
強く否定されることも、あまりない。

ただ、少しだけ浮く。

その日もそうだった。

白峰市中央区の会議室で、玲は手を挙げた。

「長い目で見ると、人の迷い方や選び方の幅が痩せる可能性があります」

一瞬だけ、部屋が静かになった。

否定はない。
だが、採用もされない。

議事録には残る。
それだけだ。

会議は次の議題へ進む。

滑らかに。
合理的に。
何事もなかったように。

玲はその空気に慣れていた。
慣れているだけで、楽ではなかった。

夜。

環状線沿いの空見橋は、雨上がりの湿り気を残していた。
路面は街灯を反射し、遠くのビル群は少し滲んで見える。

澪が先に立っていた。

黒いパーカーのポケットに手を入れたまま、白い息をひとつ吐く。

玲が隣に立つ。

触れない。
離れない。

それが二人の距離だった。

澪が言った。

「今日も浮いてた」

責める声ではない。
ただ、確かめるような言い方だった。

玲は肩をすくめる。

「見てないでしょ」

「見てない」

少し間がある。

「でも、分かる」

長い時間を共有した人間には、そういう瞬間がある。
言葉の前に、顔や呼吸で伝わってしまうことがある。

玲はそれ以上言わなかった。
否定しても意味がないと思った。

そのとき、澪が空を見上げた。

「……あれ」

玲も視線を上げる。

高い位置に、白い点があった。

星より少し大きい。
飛行機のようには流れない。
ドローンのような音もしない。

ただ、そこにある。

澪は目を細める。

「最近、よく見る気がする」

玲は答えない。

白い点は揺れず、瞬かず、何の主張もせずに空に浮かんでいた。

近づいてくる気配もない。
遠ざかる気配もない。

ただ、在る。

「害はないと思う」

澪が静かに言う。

玲は少し遅れて答えた。

「何もしないものほど、見逃される」

澪は玲を見る。

「見逃すほど、悪いものかな」

「分からない」

玲は空を見たまま言う。

「分からないものに、すぐ意味を与えたくない。害がないとも、まだ決めたくない」

風が吹く。

街は整っている。
信号は正確に切り替わる。
人は衝突を避け、夜の光は静かに揺れる。

それでも、風だけは一定にならない。

澪はもう一度、空を見上げる。

「観察、って感じだね」

冗談のような声だった。
けれど、玲は笑わなかった。

「何を?」

「私たち」

澪はそう言ってから、自分でも少し不思議そうな顔をした。

玲は白い点から目を離さない。

もし本当に見られているのだとしても。
もし本当に、何かに観察されているのだとしても。

整うのも。
迷うのも。
立ち止まるのも。
進むのも。

選ぶのは、自分だ。

白い点は何もしない。

それでも人は、何もしないものを見上げる。
見上げたあとで、また選ぶ。

澪はポケットの中で手を握り、玲は濡れた柵に指先を置いた。

触れない。
離れない。

光は消えない。
それでも、私たちは自分で選ぶ。