その光は、最後まで何もしなかった。
数ヶ月が過ぎた。
白峰市は、以前よりさらに静かな街になっていた。
事故は減った。
怒鳴り声は減った。
会議は短くなり、結論は早く出るようになった。
FLOWは、今では特別なものではない。
強制ではない。
それでも、多くの人が自然に選んでいる。
便利だから。
楽だから。
穏やかでいられるから。
それは、間違いではなかった。
紫藤澪は、その穏やかさの中にいる。
夜は眠れる。
配信は荒れない。
言葉がぶつかっても、前のように長く尾を引かない。
感情がなくなったわけではない。
喜ぶし、腹も立つ。
悲しいことは、ちゃんと悲しい。
ただ、波が少し整っている。
それが、自分には合っている。
そう思える。
だから澪は、今の生活を否定しない。
整うことは、たしかに人を救う。
黒崎玲は、FLOWを入れていない。
会議で手を挙げる。
議事録には残る。
採用されないことも多い。
それでも、手を挙げる。
迷いを短くしないために。
意味を急いで与えないために。
少数であることを、すぐに誤差と呼ばないために。
玲は、自分の選び方を変えない。
それもまた、間違いではなかった。
夜。
環状線沿いの空見橋は、雨上がりの冷たさを残していた。
路面が街灯を映している。
遠くのビルの窓明かりが、薄く滲んで見える。
白い光は、今日もそこにある。
最初に見た日と変わらない。
高い位置。
音もなく。
近づきもせず、遠ざかりもせず。
ただ、在る。
玲が先に立っていた。
黒いカーディガンの裾が、風に少し揺れている。
濡れた柵に、いつものように指先を置いている。
しばらくして、澪が来る。
ポケットに手を入れたまま、玲の隣に立つ。
触れない。
離れない。
二人の距離は、最初の日から変わらない。
「結局、あの光からは何も起きなかったね」
澪が言う。
その声には、拍子抜けしたような軽さと、少しだけ本気の安堵が混ざっていた。
玲は空を見たままうなずく。
「起きなくていい」
「そうかもね」
少し間が空く。
車の走る音が、下の方で細く流れていく。
「観察、だったのかな」
澪が白い光を見上げて言う。
玲はすぐには答えない。
「分からない」
それから、静かに続ける。
「分からないままでいいと思ってる」
澪は小さく笑う。
「やっぱり、そこは変わらないね」
「変わらなくていいところもある」
風が吹く。
今日も不規則だ。
整いきらない風。
読みきれない流れ。
それを感じながら、澪はふと口を開く。
「私は整う」
玲は視線を前に向けたまま答える。
「私は迷う」
どちらも短い。
どちらも、もう説明を必要としない。
整うことも。
迷うことも。
相手を否定する言葉ではなくなっている。
ただ、自分の立つ場所を示す言葉になっていた。
白い光は、何もしていない。
助けもしなかった。
傷つけもしなかった。
答えをくれることもなかった。
それでも、人は考えた。
何なのか。
なぜそこにあるのか。
見られているのか。
意味を与えるべきか。
与えないままでいるべきか。
そのたびに、人は自分の選び方を確かめた。
整うことを選ぶ人がいた。
迷うことを選ぶ人がいた。
干渉がないからこそ、選び方の違いだけが静かに浮かび上がった。
もし本当に観察なら。
見られていたのは、光の下にいる人間ではなく、
人間の選択そのものだったのかもしれない。
何もされなくても。
何も言われなくても。
それでも人は、自分で均衡を選ぶのか。
その問いだけが、白い光のように空に残っている。
「あなたを見捨てない」
澪が、ぽつりと言う。
玲は横を見ない。
「知ってる」
「あなたを直そうともしない」
「それも知ってる」
玲の返事は短い。
でも、それで充分だった。
澪は少し息を吐く。
玲も、ほんの少し肩の力を抜く。
和解ではない。
理解しきったわけでもない。
ただ、並んでいられる。
それだけのことが、思っていたより難しくて、思っていたより強かった。
白峰市は、これからも整っていくのだろう。
事故はもっと減るかもしれない。
怒りはもっと小さくなるかもしれない。
会議は、さらに早く終わるかもしれない。
それでも。
風は不規則に吹く。
雨は均一には落ちない。
迷いはゼロにならない。
それでいい、と玲は思う。
それでもいい、と澪も思う。
同じ意味ではない。
でも、同じ空の下で。
白い光は、最後まで何もしなかった。
だからこそ、最後まで人間の物語だった。
整うことも。
迷うことも。
見捨てないことも。
直そうとしないことも。
離れないことも。
全部、人が決めたことだ。
澪はポケットに手を入れたまま、空を見ている。
玲は濡れた柵に触れたまま、風を受けている。
触れない。
離れない。
その距離のまま、二人は並ぶ。
光は消えない。
近づかない。
遠ざからない。
それでも、私たちは自分で選ぶ。
完
