名前をつけた瞬間に、人は少し安心してしまう。
黒崎玲は、空の白い光に名前をつけなかった。
UFOとも言わない。
宇宙人とも言わない。
神とも言わない。
ただ、光。
それ以上でも、それ以下でもない。
中央区の会議室は、今日も静かだった。
資料は整理され、意見は要点だけが残り、
言葉は最短距離で交わされる。
白峰市は整ってきている。
事故は減り、衝突は減り、結論は早く出るようになった。
それは、多くの人にとって良い変化だった。
玲も、その事実は否定しない。
「他に意見はありますか」
そう聞かれて、玲は少し考えてから手を挙げた。
「選択肢が、少し早く収束しすぎています」
部屋は静かになる。
否定はされない。
誰かが明確に反論するわけでもない。
ただ、その意見は場の中心にならない。
議事録には残る。
採用はされない。
それだけだ。
玲はその流れに慣れていた。
孤立している、という言葉は少し違う。
排除されているわけではない。
ただ、少数なのだ。
その差は、思っているより静かで、
思っているより重い。
夜。
空見橋の上は、思っていたより冷えていた。
雨は降っていない。
それでも空気は湿っていて、橋の欄干にはわずかな水気が残っている。
玲は先に着いていた。
濡れた柵に指先だけを乗せ、
環状線を流れる光の列を見ている。
澪が隣に立った。
少し間を置いて、言う。
「今日も、少し浮いてた」
玲は視線を前に向けたまま答える。
「会議で?」
「うん。見てないけど」
一拍。
「でも、分かる」
玲は小さく息を吐いた。
長い時間は、説明を減らす。
顔色や間の取り方だけで伝わることがある。
それを面倒だと思ったこともある。
でも、今は少しだけ救いに近い。
澪が空を見上げる。
今日も、あった。
高い位置に、白い点。
音もなく、揺れもなく、ただそこにある。
「怖くないの?」
玲はすぐには答えなかった。
その問いは、単純なようでいて難しい。
怖いか、怖くないかで言えば、怖い。
近づいてもこない。
攻撃もしてこない。
何かを奪うわけでもない。
それでも。
理由がなく、意味がなく、答えもなく、
ただ見えているものは、どこか落ち着かない。
「怖い」
玲はそう言った。
澪は少しだけ驚いたように、横目で見る。
「でも」
玲は続ける。
「意味は置かない」
風が吹く。
今日の風も、不規則だった。
「どうして?」
澪が聞く。
「意味を置くと、安心するから」
玲は白い光を見上げたまま言う。
「見守っているとか、人間を信じているとか。そういう言葉を置いた瞬間に、少し楽になる」
「楽になるの、悪いことじゃないよ」
「うん」
玲は否定しない。
「でも、早く結論を出しすぎる」
白峰市では、多くのことが整い始めている。
感情も。
会話も。
判断も。
それは正しさの一つだ。
だからこそ玲は、分からないものまで早く整えてしまいたくなかった。
「観察されてるかもよ」
澪は少し冗談めかして言った。
玲は肩をすくめる。
「かもね」
「平気なの?」
「平気じゃない」
一拍。
「でも、見られていても選ぶのは自分」
澪は黙る。
その言葉は強い。
強すぎるわけではない。
ただ、玲の中で長く固まってきた考えの形をしていた。
誰かに見られていることと、
自分で選ぶことは別だ。
干渉されていないなら、なおさら。
整うことを選ぶのも。
迷いを残すのも。
意味を置くのも。
意味を保留するのも。
選ぶのは、自分だ。
玲は思う。
もし本当に観察なら。
何を見ているのだろう。
整っていく街か。
穏やかになった人の流れか。
未然に止まる衝突か。
あるいは。
何もされなくても、人が自分で均衡を作ることそのものか。
答えは出ない。
出さなくていいと思っている。
分からないままにしておく自由も、
玲にとっては手放したくないものの一つだった。
白い光は今日も動かない。
大きさは変わらない。
距離も変わらない。
何かを主張するような気配もない。
ただ、在る。
それだけで、街は少しだけ考えてしまう。
それだけで、人は少しだけ自分の輪郭を確かめる。
澪はポケットに手を入れたまま、空を見ている。
玲は濡れた柵に触れたまま、風を受けている。
触れない。
離れない。
その距離は変わらない。
「私は、あなたが少し怖い」
澪がぽつりと言う。
玲は視線を動かさずに聞き返す。
「どうして?」
「苦しい方を、選べてしまうから」
玲は少しだけ目を細めた。
そして、静かに答える。
「私も、あなたが少し怖い」
「どうして?」
「安心できる方へ、ちゃんと手を伸ばせるから」
澪は何も言わなかった。
それでよかった。
理解しきれないことと、壊れることは違う。
同じ正しさに立てないことと、離れることも違う。
白峰市は静かだ。
空の光は消えない。
答えはどこにもない。
それでも。
私は迷う。
あなたは整える。
そして、私たちは並ぶ。
光は消えない。
それでも、私たちは自分で選ぶ。
