夜。
喫茶「はり」。
ミオは、カウンターの端に置かれた白いカップを見ていた。
今まで使っていたものより、持ち手が少し太い。
「マスター。これ、新しい?」
「ああ」
「前のは?」
「ヒビが広がった。捨てた」
ミオの指が、空になったグラスから離れた。
「……この前、私がぶつけたやつ?」
「ああ」
「やっぱり駄目だったんだ。ごめん」
「聞いた」
「え?」
「ぶつけた日に聞いた」
ジンは新しいカップを棚へ入れた。
ミオは棚の中のカップを見たまま動かない。
「もう一回、謝った方がいい?」
「いらん」
「でも、捨てることになったし」
「次は両手で持て」
「それで終わり?」
「終わりだ」
ジンは布巾を畳み直した。
「必要なら謝る。壊した物を片づける。次は落とさない」
棚を閉める。
「同じことを何度も言っても、カップは戻らん」
ミオは自分の両手を見た。
「簡単に言うね」
「カップ一個の話だ」
「私には一個でも気になるの」
口ではそう言いながら、ミオは空のグラスを両手で持ち、カウンターの奥へ押し戻した。
レイがその手元を見る。
何も言わず、コーヒーを一口飲んだ。
ナギは端末から顔を上げる。
ミオが壁の時計を見た。
「あ。私、先に帰るね」
「また明日」
レイが言う。
ミオはナギへも手を振った。
「ナギさん、おやすみ」
「おやすみなさい」
ミオは店を出た。
⸻
数分後。
駅前広場。
一人の女性が、街灯の下で頭を下げていた。
正面には誰もいない。
「ごめんなさい」
顔を上げる。
すぐに、また頭を下げる。
「本当に、ごめんなさい」
少し離れた場所では、会社員が端末を握り締めている。
メッセージ入力欄に、何度も同じ文を打っていた。
〈さっきは言いすぎました〉
送信する前に消す。
もう一度、同じ文を打つ。
「言わなきゃよかった」
駅の階段では、学生が途中の段に座り込んでいた。
両手で鞄を抱えている。
「私のせいだ」
ミオは足を止めた。
広場のあちこちで、人が同じ場所から動けなくなっている。
謝っている。
後悔した言葉を繰り返している。
誰も次の一歩を出さない。
ミオは端末を取り出した。
「レイさん。ナギさん」
喫茶「はり」。
レイとナギが、同時に通信へ出る。
『駅前広場。何人も動けなくなってる』
レイが椅子から立った。
「怪人は見えますか?」
『まだ見つけて――』
通信の向こうから、低い声が入った。
『覚えてる?』
ミオの息が止まる音がした。
ナギも立ち上がる。
「今行きます」
ジンが二人を見る。
「ミオか」
「はい」
「連れて戻ってこい」
レイがうなずいた。
「行ってきます」
⸻
駅前広場。
ミオの正面に、黒い怪人が立っていた。
細い身体。
胸には、古い傷のような赤黒い模様。
背中には、黄ばんだ記録票が何十枚も刺さっている。
顔には目も鼻もない。
大きな口だけが開いていた。
「忘れてないよね」
「悪いのは、あなた」
ミオの周囲へ、背中の記録票が三枚抜け落ちた。
一枚目に映像が浮かぶ。
閉まりかけた電車の扉へ、ミオが走っている。
指先の前で扉が閉じた。
車内にいた誰かが、遠ざかっていく。
映像は、扉が閉じたところで切れた。
二枚目では、ミオが誰かへ背中を向けている。
「もう知らない」
相手が下を向く。
そこで映像が切れた。
三枚目には、喫茶「はり」のカウンターが映っている。
ミオの肘が白いカップへ当たる。
カップが倒れ、細いヒビが入った。
ジンがカップを持ち上げる。
映像は、ミオが謝る前に切れた。
ミオの指が端末から離れた。
閉まった扉を見る。
下を向いた相手を見る。
ヒビの入ったカップを見る。
「覚えてるよ」
声が小さくなる。
「忘れてない」
怪人の口が横へ広がった。
「なら、動くな」
「謝って」
「許されるまで」
ミオの後ろから足音が近づく。
「ミオ!」
レイとナギが広場へ走り込んだ。
ミオが振り返る。
「レイさん。ナギさん」
ナギは怪人へ端末を向けた。
「怪人の発声に合わせて、周囲の罪悪感が上昇しています」
表示を確認する。
「発生源は、あの個体です。仮称、ツミノコリ」
レイは広場に残る人々を見た。
「先に駅の中へ移します」
「了解」
ミオは階段の学生へ走る。
鞄を抱えた腕へ手を添えた。
「立てる?」
「私が、ちゃんと見てなかったから」
「話は中で聞く。今は立って」
学生の腕を肩へ回し、駅の入口まで連れていく。
レイは頭を下げ続ける女性を支えた。
ナギは会社員へ、ガラス扉までの空いた道を示す。
「正面六メートルです。端末を閉じて、扉まで歩いてください」
一人ずつ、駅の中へ入る。
最後に学生がガラス扉を越えた。
駅員が内側から誘導し、三人を改札前まで下げる。
外の広場に残ったのは、レイ、ミオ、ナギ、ツミノコリだけだ。
三人の背後、六メートルに駅のガラス扉。
ツミノコリは正面十メートル。
レイが腰の黒いバックルへ手を当てる。
「装着します」
三人が構えた。
「ARK SUIT――ENGAGE」
三人のバックルが開く。
白いジャケットが光へ変わり、黒いフィールドスーツが全身を包んだ。
胸、肩、前腕、腰、膝、脛。
白い装甲が順番に固定される。
レイの厚い装甲にマゼンタのラインが走り、左肩に「CENTER」が灯る。
ミオの膝と足首で高機動ユニットが開き、シアンのラインと「BREAK」の表示が光る。
ナギの肩と前腕で小型センサーが起動する。眼鏡の上へ透明なバイザーが降り、ゴールドの照準が記録票を追った。左肩には「SCAN」。
三人の胸部エンブレムが同時に光る。
「アーク・センター、レイ」
「アーク・ブレイク、ミオ!」
「アーク・スキャン、ナギ」
ミオが正面へ走る。
ツミノコリが口を開いた。
「前にも失敗した」
背中の記録票が一斉に抜ける。
十枚がミオの前へ並んだ。
閉まる扉。
下を向く相手。
倒れるカップ。
同じ場面が、何度も繰り返される。
ミオの走る速度が落ちた。
高機動ユニットのシアンの光が弱くなる。
ナギの前にも記録票が並ぶ。
過去のナギが、端末の赤い警告を閉じる。
画面の端で、赤い点が大きくなる。
記録は、ナギの指が警告から離れたところで切れた。
「閉じる前に、もう一度見ればよかった」
ナギの指が止まる。
バイザーへ同じ赤い警告が何枚も重なった。
レイの周囲にも記録票が浮かぶ。
倒れかけた人へ手を伸ばすレイ。
指先が届く前に、その人が画面の外へ落ちる。
映像は、届かなかった手だけを残して止まった。
「支えられなかった」
別の記録票では、黒い影がレイの両腕の間を抜けていく。
「止められなかった」
三人の装甲から、マゼンタ、シアン、ゴールドの光が薄れていく。
ツミノコリは両腕を広げた。
「謝ればいい」
「ずっと」
「動かずに」
「許されるまで」
ミオの膝が沈む。
目の前で、電車の扉がまた閉じた。
今度こそ止めたい。
扉が閉じる前へ戻りたい。
だが、映像は同じ一秒を繰り返すだけだ。
戻れないと分かるほど、足に力が入らなくなる。
「私がもっと早ければ」
声が漏れた。
「あの時、あんなことを言わなければ」
ツミノコリの背中から、三枚の記録票が飛び出した。
紙の縁が赤黒く光る。
刃のように回転しながら、三人の背後へ向かった。
狙いは駅のガラス扉。
扉の向こうに、さっきの学生がいる。
レイが一枚目の前へ入った。
右腕で弾く。
二枚目を左の前腕装甲で受け止める。
火花が散った。
三枚目が、レイの右を抜けた。
「ミオ!」
ミオは閉まる電車の扉を見ている。
レイがもう一度呼ぶ。
「映像の扉ではありません!」
ミオの肩が動いた。
「後ろのガラス扉です!」
ミオは振り返る。
六メートル先。
回転する記録票が、駅のガラス扉へ向かっている。
扉の向こうで、学生が身を固くしていた。
閉まった電車の扉は、ミオの背後でまた同じ映像を繰り返す。
目の前のガラス扉には、今いる学生が見える。
ミオは右足を床へついた。
「そっちは、今から間に合う!」
高機動ユニットにシアンの光が戻る。
「ブレイク・ステップ!」
ミオが背後へ加速した。
三歩で記録票へ追いつく。
前腕のブレードを横へ振る。
「ブレイク・スラッシュライン!」
三枚目の記録票が二つに切れた。
赤黒い光が、ガラス扉の手前で消える。
ミオは扉の前で止まった。
学生と目が合う。
学生は鞄を抱えたまま、立っている。
ミオはうなずき、ツミノコリへ向き直った。
ガラス扉から六メートルを走って戻り、レイの右で止まる。
ツミノコリが叫ぶ。
「戻れ!」
「謝れ!」
「あの時へ戻れ!」
「戻れない。だから、こっちを切った!」
ツミノコリが残りの記録票をレイへ叩きつける。
レイは両腕を交差し、正面で受け止めた。
記録票の角が白い装甲へ当たる。
マゼンタの火花が連続して散る。
レイの前では、届かなかった手の映像が繰り返されている。
レイは一度、その手を見る。
次に、ガラス扉の向こうで立っている学生を見る。
「あの人には届きませんでした」
右足を一歩前へ出す。
「でも、今ここにいる人の前には立てます」
両腕を開き、記録票を左右へ押し返す。
「センター・グラビティホールド」
マゼンタの固定リングが、ツミノコリの足元へ広がった。
怪人の両足が床へ沈む。
身体は止まった。
だが、空中の記録票は飛び続ける。
ナギのバイザーには、閉じた警告が何度も表示されていた。
ナギは自分の記録票を見る。
赤い警告を閉じたところで、映像が終わっている。
次の記録票も同じだ。
さらに別の記録票では、誰かが謝ろうと顔を上げる。
口を開く直前で映像が切れた。
ナギの視線が止まる。
「レイ。ミオ」
二人がナギを見る。
「どの記録も、失敗した直後で切れています」
ナギは自分の記録票を指した。
「私はこの後、警告を開き直しました」
別の一枚へ照準を移す。
「謝った場面も、片づけた場面も、次に直した場面も映していません」
ツミノコリの口が大きく開く。
「忘れるな!」
ナギは暗くなった警告を一つずつ閉じた。
バイザーに残したのは、現在の広場と、飛んでいる記録票だけだ。
「忘れません」
ゴールドの光が装甲へ戻る。
「次に閉じる前に、警告の原因を見ます」
記録票の動きを追う。
すべての記録票が、ツミノコリの胸の傷が光るたびに向きを変えていた。
「記録票の操作点は、胸の傷です」
ゴールドの照準が赤黒い傷へ重なる。
「スキャン・フェイズロック」
金色の格子が胸の傷を固定した。
空中の記録票が、その場で止まる。
「ミオ。胸まで正面十メートル。障害物はありません」
「了解!」
ミオが地面を蹴る。
止まった記録票の間をまっすぐ走る。
ツミノコリが叫ぶ。
「消えない!」
「罪は残る!」
ミオは前腕のブレードを構えた。
「カップのヒビも、言った言葉も消えてない!」
胸の傷へ踏み込む。
「でも、次に持つ時は両手を使う!」
「ブレイク・スラッシュライン!」
シアンの刃が、胸の赤黒い傷を切った。
傷が割れる。
空中の記録票から映像が消え、黄ばんだ紙だけが床へ落ちた。
レイが正面からツミノコリを固定する。
ナギが胸の傷へ照準を合わせ続ける。
ミオはツミノコリの右へ着地した。
三人の胸部エンブレムが同時に光った。
「アークエンジェル・トライアド!」
ツミノコリが口を開く。
「謝れ!」
「止まれ!」
「戻れ!」
レイが答えた。
「今いる人を守ります」
マゼンタ、シアン、ゴールドの光が、ツミノコリを包んだ。
怪人の黒い身体が細かな粒へ崩れる。
床に落ちた記録票も、順番に光となって消えた。
⸻
駅前広場。
駅のガラス扉が開く。
会社員が端末を開いた。
〈さっきは言いすぎました〉
今度は消さずに送信する。
端末をポケットへしまい、駅の外へ歩き出した。
階段に座っていた学生は、鞄を持ち直す。
一段。
もう一段。
ゆっくり階段を上っていく。
何度も頭を下げていた女性は、すぐには動かなかった。
一度だけ深く頭を下げる。
顔を上げる。
今度は前を見て歩き出した。
誰も笑ってはいない。
それでも、一人ずつ広場を離れていく。
ナギのバイザーから赤い波形が消えた。
「周囲の反応、正常です。負傷者はいません」
レイがバックルへ手を当てる。
「ARK SUIT――DISENGAGE」
三人の装甲が光の粒となり、バックルへ戻る。
黒いフィールドスーツが消え、三人は白いジャケット姿へ戻った。
ミオは駅のガラス扉を見た。
自分の姿が薄く映っている。
その向こうで、学生が改札へ歩いていく。
「今回が一番きつかった」
レイがミオの隣へ立つ。
「終わった場面だけを、何度も見せられましたから」
ミオは自分の両手を見る。
「カップのこと、また謝りたくなってきた」
「ジンは一回でいいと言っていました」
「そうだった」
ナギが駅の時計を見る。
「二十二時四十八分です」
ミオも時計を見上げた。
「あ。お腹すいた」
「私もです」
ミオが二人を見る。
「マスター、もう店閉めたかな」
レイが喫茶「はり」の方向を向いた。
「戻ってみましょう」
三人は駅前広場を歩き出した。
⸻
深夜。
喫茶「はり」。
三人が扉を開ける。
「ただいま」
ミオの声が店内へ響いた。
ジンがカウンターから顔を上げる。
「戻ったか」
レイが答える。
「終わりました」
「そうか」
ジンは奥から大皿を出した。
「飯、残ってる」
ミオの顔が上がる。
「食べる」
ナギも椅子へ座った。
「私もお願いします」
レイの前には、いつものコーヒーが置かれる。
ミオとナギは遅い食事を始めた。
しばらくして、ミオが箸を置く。
「マスター」
「なんだ」
「カップのこと、もう一回謝った方がいい?」
「もう聞いた」
「じゃあ、次は?」
「両手で持て」
ミオはうなずいた。
カウンターの端に置かれた水のグラスを両手で持ち上げた。
「次は落とさない」
「そうしろ」
水を飲み、両手のままグラスをカウンターへ戻した。
ナギは食事を続ける。
レイのカップから湯気が上がる。
ジンは空いた皿を片づけた。
窓の外で、信号が青に変わる。
一人の男性が横断歩道へ入った。
後ろから「待って」と声がした。
男性が足を止めて振り返る。
女性が追いつき、隣へ並んだ。
二人は前を向き、残りの白線を越えていく。
喫茶「はり」の灯りは、その夜もついていた。
