SHORT STORY / BLACK VELOCITY

第六話 罪悪感の怪人ツミノコリ

 夜。

 喫茶「はり」。

 ミオは、カウンターの端に置かれた白いカップを見ていた。

 今まで使っていたものより、持ち手が少し太い。

「マスター。これ、新しい?」

「ああ」

「前のは?」

「ヒビが広がった。捨てた」

 ミオの指が、空になったグラスから離れた。

「……この前、私がぶつけたやつ?」

「ああ」

「やっぱり駄目だったんだ。ごめん」

「聞いた」

「え?」

「ぶつけた日に聞いた」

 ジンは新しいカップを棚へ入れた。

 ミオは棚の中のカップを見たまま動かない。

「もう一回、謝った方がいい?」

「いらん」

「でも、捨てることになったし」

「次は両手で持て」

「それで終わり?」

「終わりだ」

 ジンは布巾を畳み直した。

「必要なら謝る。壊した物を片づける。次は落とさない」

 棚を閉める。

「同じことを何度も言っても、カップは戻らん」

 ミオは自分の両手を見た。

「簡単に言うね」

「カップ一個の話だ」

「私には一個でも気になるの」

 口ではそう言いながら、ミオは空のグラスを両手で持ち、カウンターの奥へ押し戻した。

 レイがその手元を見る。

 何も言わず、コーヒーを一口飲んだ。

 ナギは端末から顔を上げる。

 ミオが壁の時計を見た。

「あ。私、先に帰るね」

「また明日」

 レイが言う。

 ミオはナギへも手を振った。

「ナギさん、おやすみ」

「おやすみなさい」

 ミオは店を出た。

 ⸻

 数分後。

 駅前広場。

 一人の女性が、街灯の下で頭を下げていた。

 正面には誰もいない。

「ごめんなさい」

 顔を上げる。

 すぐに、また頭を下げる。

「本当に、ごめんなさい」

 少し離れた場所では、会社員が端末を握り締めている。

 メッセージ入力欄に、何度も同じ文を打っていた。

〈さっきは言いすぎました〉

 送信する前に消す。

 もう一度、同じ文を打つ。

「言わなきゃよかった」

 駅の階段では、学生が途中の段に座り込んでいた。

 両手で鞄を抱えている。

「私のせいだ」

 ミオは足を止めた。

 広場のあちこちで、人が同じ場所から動けなくなっている。

 謝っている。

 後悔した言葉を繰り返している。

 誰も次の一歩を出さない。

 ミオは端末を取り出した。

「レイさん。ナギさん」

 喫茶「はり」。

 レイとナギが、同時に通信へ出る。

『駅前広場。何人も動けなくなってる』

 レイが椅子から立った。

「怪人は見えますか?」

『まだ見つけて――』

 通信の向こうから、低い声が入った。

『覚えてる?』

 ミオの息が止まる音がした。

 ナギも立ち上がる。

「今行きます」

 ジンが二人を見る。

「ミオか」

「はい」

「連れて戻ってこい」

 レイがうなずいた。

「行ってきます」

 ⸻

 駅前広場。

 ミオの正面に、黒い怪人が立っていた。

 細い身体。

 胸には、古い傷のような赤黒い模様。

 背中には、黄ばんだ記録票が何十枚も刺さっている。

 顔には目も鼻もない。

 大きな口だけが開いていた。

「忘れてないよね」

「悪いのは、あなた」

 ミオの周囲へ、背中の記録票が三枚抜け落ちた。

 一枚目に映像が浮かぶ。

 閉まりかけた電車の扉へ、ミオが走っている。

 指先の前で扉が閉じた。

 車内にいた誰かが、遠ざかっていく。

 映像は、扉が閉じたところで切れた。

 二枚目では、ミオが誰かへ背中を向けている。

「もう知らない」

 相手が下を向く。

 そこで映像が切れた。

 三枚目には、喫茶「はり」のカウンターが映っている。

 ミオの肘が白いカップへ当たる。

 カップが倒れ、細いヒビが入った。

 ジンがカップを持ち上げる。

 映像は、ミオが謝る前に切れた。

 ミオの指が端末から離れた。

 閉まった扉を見る。

 下を向いた相手を見る。

 ヒビの入ったカップを見る。

「覚えてるよ」

 声が小さくなる。

「忘れてない」

 怪人の口が横へ広がった。

「なら、動くな」

「謝って」

「許されるまで」

 ミオの後ろから足音が近づく。

「ミオ!」

 レイとナギが広場へ走り込んだ。

 ミオが振り返る。

「レイさん。ナギさん」

 ナギは怪人へ端末を向けた。

「怪人の発声に合わせて、周囲の罪悪感が上昇しています」

 表示を確認する。

「発生源は、あの個体です。仮称、ツミノコリ」

 レイは広場に残る人々を見た。

「先に駅の中へ移します」

「了解」

 ミオは階段の学生へ走る。

 鞄を抱えた腕へ手を添えた。

「立てる?」

「私が、ちゃんと見てなかったから」

「話は中で聞く。今は立って」

 学生の腕を肩へ回し、駅の入口まで連れていく。

 レイは頭を下げ続ける女性を支えた。

 ナギは会社員へ、ガラス扉までの空いた道を示す。

「正面六メートルです。端末を閉じて、扉まで歩いてください」

 一人ずつ、駅の中へ入る。

 最後に学生がガラス扉を越えた。

 駅員が内側から誘導し、三人を改札前まで下げる。

 外の広場に残ったのは、レイ、ミオ、ナギ、ツミノコリだけだ。

 三人の背後、六メートルに駅のガラス扉。

 ツミノコリは正面十メートル。

 レイが腰の黒いバックルへ手を当てる。

「装着します」

 三人が構えた。

「ARK SUIT――ENGAGE」

 三人のバックルが開く。

 白いジャケットが光へ変わり、黒いフィールドスーツが全身を包んだ。

 胸、肩、前腕、腰、膝、脛。

 白い装甲が順番に固定される。

 レイの厚い装甲にマゼンタのラインが走り、左肩に「CENTER」が灯る。

 ミオの膝と足首で高機動ユニットが開き、シアンのラインと「BREAK」の表示が光る。

 ナギの肩と前腕で小型センサーが起動する。眼鏡の上へ透明なバイザーが降り、ゴールドの照準が記録票を追った。左肩には「SCAN」。

 三人の胸部エンブレムが同時に光る。

「アーク・センター、レイ」

「アーク・ブレイク、ミオ!」

「アーク・スキャン、ナギ」

 ミオが正面へ走る。

 ツミノコリが口を開いた。

「前にも失敗した」

 背中の記録票が一斉に抜ける。

 十枚がミオの前へ並んだ。

 閉まる扉。

 下を向く相手。

 倒れるカップ。

 同じ場面が、何度も繰り返される。

 ミオの走る速度が落ちた。

 高機動ユニットのシアンの光が弱くなる。

 ナギの前にも記録票が並ぶ。

 過去のナギが、端末の赤い警告を閉じる。

 画面の端で、赤い点が大きくなる。

 記録は、ナギの指が警告から離れたところで切れた。

「閉じる前に、もう一度見ればよかった」

 ナギの指が止まる。

 バイザーへ同じ赤い警告が何枚も重なった。

 レイの周囲にも記録票が浮かぶ。

 倒れかけた人へ手を伸ばすレイ。

 指先が届く前に、その人が画面の外へ落ちる。

 映像は、届かなかった手だけを残して止まった。

「支えられなかった」

 別の記録票では、黒い影がレイの両腕の間を抜けていく。

「止められなかった」

 三人の装甲から、マゼンタ、シアン、ゴールドの光が薄れていく。

 ツミノコリは両腕を広げた。

「謝ればいい」

「ずっと」

「動かずに」

「許されるまで」

 ミオの膝が沈む。

 目の前で、電車の扉がまた閉じた。

 今度こそ止めたい。

 扉が閉じる前へ戻りたい。

 だが、映像は同じ一秒を繰り返すだけだ。

 戻れないと分かるほど、足に力が入らなくなる。

「私がもっと早ければ」

 声が漏れた。

「あの時、あんなことを言わなければ」

 ツミノコリの背中から、三枚の記録票が飛び出した。

 紙の縁が赤黒く光る。

 刃のように回転しながら、三人の背後へ向かった。

 狙いは駅のガラス扉。

 扉の向こうに、さっきの学生がいる。

 レイが一枚目の前へ入った。

 右腕で弾く。

 二枚目を左の前腕装甲で受け止める。

 火花が散った。

 三枚目が、レイの右を抜けた。

「ミオ!」

 ミオは閉まる電車の扉を見ている。

 レイがもう一度呼ぶ。

「映像の扉ではありません!」

 ミオの肩が動いた。

「後ろのガラス扉です!」

 ミオは振り返る。

 六メートル先。

 回転する記録票が、駅のガラス扉へ向かっている。

 扉の向こうで、学生が身を固くしていた。

 閉まった電車の扉は、ミオの背後でまた同じ映像を繰り返す。

 目の前のガラス扉には、今いる学生が見える。

 ミオは右足を床へついた。

「そっちは、今から間に合う!」

 高機動ユニットにシアンの光が戻る。

「ブレイク・ステップ!」

 ミオが背後へ加速した。

 三歩で記録票へ追いつく。

 前腕のブレードを横へ振る。

「ブレイク・スラッシュライン!」

 三枚目の記録票が二つに切れた。

 赤黒い光が、ガラス扉の手前で消える。

 ミオは扉の前で止まった。

 学生と目が合う。

 学生は鞄を抱えたまま、立っている。

 ミオはうなずき、ツミノコリへ向き直った。

 ガラス扉から六メートルを走って戻り、レイの右で止まる。

 ツミノコリが叫ぶ。

「戻れ!」

「謝れ!」

「あの時へ戻れ!」

「戻れない。だから、こっちを切った!」

 ツミノコリが残りの記録票をレイへ叩きつける。

 レイは両腕を交差し、正面で受け止めた。

 記録票の角が白い装甲へ当たる。

 マゼンタの火花が連続して散る。

 レイの前では、届かなかった手の映像が繰り返されている。

 レイは一度、その手を見る。

 次に、ガラス扉の向こうで立っている学生を見る。

「あの人には届きませんでした」

 右足を一歩前へ出す。

「でも、今ここにいる人の前には立てます」

 両腕を開き、記録票を左右へ押し返す。

「センター・グラビティホールド」

 マゼンタの固定リングが、ツミノコリの足元へ広がった。

 怪人の両足が床へ沈む。

 身体は止まった。

 だが、空中の記録票は飛び続ける。

 ナギのバイザーには、閉じた警告が何度も表示されていた。

 ナギは自分の記録票を見る。

 赤い警告を閉じたところで、映像が終わっている。

 次の記録票も同じだ。

 さらに別の記録票では、誰かが謝ろうと顔を上げる。

 口を開く直前で映像が切れた。

 ナギの視線が止まる。

「レイ。ミオ」

 二人がナギを見る。

「どの記録も、失敗した直後で切れています」

 ナギは自分の記録票を指した。

「私はこの後、警告を開き直しました」

 別の一枚へ照準を移す。

「謝った場面も、片づけた場面も、次に直した場面も映していません」

 ツミノコリの口が大きく開く。

「忘れるな!」

 ナギは暗くなった警告を一つずつ閉じた。

 バイザーに残したのは、現在の広場と、飛んでいる記録票だけだ。

「忘れません」

 ゴールドの光が装甲へ戻る。

「次に閉じる前に、警告の原因を見ます」

 記録票の動きを追う。

 すべての記録票が、ツミノコリの胸の傷が光るたびに向きを変えていた。

「記録票の操作点は、胸の傷です」

 ゴールドの照準が赤黒い傷へ重なる。

「スキャン・フェイズロック」

 金色の格子が胸の傷を固定した。

 空中の記録票が、その場で止まる。

「ミオ。胸まで正面十メートル。障害物はありません」

「了解!」

 ミオが地面を蹴る。

 止まった記録票の間をまっすぐ走る。

 ツミノコリが叫ぶ。

「消えない!」

「罪は残る!」

 ミオは前腕のブレードを構えた。

「カップのヒビも、言った言葉も消えてない!」

 胸の傷へ踏み込む。

「でも、次に持つ時は両手を使う!」

「ブレイク・スラッシュライン!」

 シアンの刃が、胸の赤黒い傷を切った。

 傷が割れる。

 空中の記録票から映像が消え、黄ばんだ紙だけが床へ落ちた。

 レイが正面からツミノコリを固定する。

 ナギが胸の傷へ照準を合わせ続ける。

 ミオはツミノコリの右へ着地した。

 三人の胸部エンブレムが同時に光った。

「アークエンジェル・トライアド!」

 ツミノコリが口を開く。

「謝れ!」

「止まれ!」

「戻れ!」

 レイが答えた。

「今いる人を守ります」

 マゼンタ、シアン、ゴールドの光が、ツミノコリを包んだ。

 怪人の黒い身体が細かな粒へ崩れる。

 床に落ちた記録票も、順番に光となって消えた。

 ⸻

 駅前広場。

 駅のガラス扉が開く。

 会社員が端末を開いた。

〈さっきは言いすぎました〉

 今度は消さずに送信する。

 端末をポケットへしまい、駅の外へ歩き出した。

 階段に座っていた学生は、鞄を持ち直す。

 一段。

 もう一段。

 ゆっくり階段を上っていく。

 何度も頭を下げていた女性は、すぐには動かなかった。

 一度だけ深く頭を下げる。

 顔を上げる。

 今度は前を見て歩き出した。

 誰も笑ってはいない。

 それでも、一人ずつ広場を離れていく。

 ナギのバイザーから赤い波形が消えた。

「周囲の反応、正常です。負傷者はいません」

 レイがバックルへ手を当てる。

「ARK SUIT――DISENGAGE」

 三人の装甲が光の粒となり、バックルへ戻る。

 黒いフィールドスーツが消え、三人は白いジャケット姿へ戻った。

 ミオは駅のガラス扉を見た。

 自分の姿が薄く映っている。

 その向こうで、学生が改札へ歩いていく。

「今回が一番きつかった」

 レイがミオの隣へ立つ。

「終わった場面だけを、何度も見せられましたから」

 ミオは自分の両手を見る。

「カップのこと、また謝りたくなってきた」

「ジンは一回でいいと言っていました」

「そうだった」

 ナギが駅の時計を見る。

「二十二時四十八分です」

 ミオも時計を見上げた。

「あ。お腹すいた」

「私もです」

 ミオが二人を見る。

「マスター、もう店閉めたかな」

 レイが喫茶「はり」の方向を向いた。

「戻ってみましょう」

 三人は駅前広場を歩き出した。

 ⸻

 深夜。

 喫茶「はり」。

 三人が扉を開ける。

「ただいま」

 ミオの声が店内へ響いた。

 ジンがカウンターから顔を上げる。

「戻ったか」

 レイが答える。

「終わりました」

「そうか」

 ジンは奥から大皿を出した。

「飯、残ってる」

 ミオの顔が上がる。

「食べる」

 ナギも椅子へ座った。

「私もお願いします」

 レイの前には、いつものコーヒーが置かれる。

 ミオとナギは遅い食事を始めた。

 しばらくして、ミオが箸を置く。

「マスター」

「なんだ」

「カップのこと、もう一回謝った方がいい?」

「もう聞いた」

「じゃあ、次は?」

「両手で持て」

 ミオはうなずいた。

 カウンターの端に置かれた水のグラスを両手で持ち上げた。

「次は落とさない」

「そうしろ」

 水を飲み、両手のままグラスをカウンターへ戻した。

 ナギは食事を続ける。

 レイのカップから湯気が上がる。

 ジンは空いた皿を片づけた。

 窓の外で、信号が青に変わる。

 一人の男性が横断歩道へ入った。

 後ろから「待って」と声がした。

 男性が足を止めて振り返る。

 女性が追いつき、隣へ並んだ。

 二人は前を向き、残りの白線を越えていく。

 喫茶「はり」の灯りは、その夜もついていた。