夜。
喫茶「はり」。
古いラジオから、静かな音楽が流れていた。
ミオがカウンターへ身を乗り出す。
「マスター、これ誰の曲?」
「知らん」
「店で流してるのに?」
「ラジオが選んでる」
「もうちょっと興味持とうよ」
「コーヒーには関係ない」
ナギが壁の時計を見る。
十九時四十分。
「私は先に帰ります」
ミオが振り向いた。
「今日は早いね、ナギさん」
「少し用事があります」
「一緒に行こうか?」
「一人で済ませられます」
ナギは白いジャケットの裾を整え、椅子から立った。
「また明日」
「はい。また明日」
レイも顔を上げる。
「気をつけて」
「ありがとうございます」
ナギが店を出た。
扉が閉まる。
ラジオの音が、また店内を満たした。
しばらくして、レイもカップを置く。
「私も帰ります」
ミオが椅子から下りた。
「私も。高架デッキまで一緒だよね?」
「はい」
二人が店を出る。
ジンが背中へ声をかけた。
「気をつけろ」
「高架デッキまで明るいよ」
ミオは振り返って手を振った。
⸻
夜の高架歩行デッキ。
東西を結ぶ通路の下を、車のライトが流れている。
頭上の照明は明るい。
学生二人、親子、仕事帰りの男女が、レイとミオの前を歩いていた。
ミオが足を止める。
「レイさん」
「はい」
「静かじゃない?」
二人は周囲を見る。
人通りはある。
それなのに、誰も話していない。
学生二人は、手を伸ばしても届かない距離を空けて歩いている。
子どもが母親を見上げ、何か言おうとした。
母親は子どもを見ない。
子どもは口を閉じた。
仕事帰りの男性が隣の女性を見る。
目が合う前に、二人とも別の方を向いた。
「人が少ないわけではありません」
レイが言う。
ミオは、離れて歩く学生二人を見た。
「近くにいるのに、みんな一人みたい」
黒い糸が、頭上の照明から反対側の手すりへ伸びた。
「誰も見ていない」
別の糸が、学生二人の間へ落ちる。
二人の間隔がさらに広がった。
「誰も聞いていない」
長い腕が手すりをつかんだ。
黒い怪人が、デッキの中央へ降り立つ。
背中には蜘蛛の脚に似た突起が八本。
指先から伸びた黒い糸が、照明、床、手すり、人と人の間を結んでいる。
「呼んでも届かない」
ミオは端末を出した。
「ナギさん、聞こえる?」
『聞こえます。どうしました?』
「高架デッキに怪人。今、映像を送る」
端末のカメラを怪人へ向ける。
ナギの端末に受信表示が出た。
『映像を受信しました。周囲の人が、近くの相手から離れています』
怪人の背中で、八本の突起が開く。
黒い糸が画面を横切った。
映像に黒い線が入り、音声が途切れる。
『周囲の孤独感が上昇――』
『発生源は、その個体――仮称、ヒトリグモ――』
「ナギさん?」
返事はない。
通信表示が消えた。
ヒトリグモが両腕を上げる。
手すりに張った糸が、一斉に人々へ向いた。
レイが怪人と人々の間へ入る。
「ミオ。人を東側の階段へ」
「了解!」
ミオは東側の階段を指した。
「みんな、こっち! 手すりの内側を歩いて!」
母親は動かない子どもの手を引いた。
ミオが子どもの反対側へ立ち、二人を階段まで連れていく。
学生二人には、同じ踊り場を指した。
「離れたままでいいから、同じ階段を下りて!」
二人は別々に歩きながら、東側へ向かった。
仕事帰りの男女も続く。
最後の一人が階段の踊り場まで下りた。
デッキの上に残ったのは、レイ、ミオ、ヒトリグモだけだ。
東側の階段は二人の背後。
ヒトリグモは正面十一メートル。
レイとミオの間は、四メートル空いている。
レイが腰の黒いバックルへ手を当てた。
「装着します」
二人が構える。
「ARK SUIT――ENGAGE」
二人のバックルが開く。
白いジャケットが光へ変わり、黒いフィールドスーツが全身を包んだ。
白い装甲が胸、肩、前腕、腰、膝、脛へ固定される。
レイの厚い装甲にマゼンタのラインが走り、左肩に「CENTER」が灯る。
ミオの膝と足首で高機動ユニットが開き、シアンのラインと「BREAK」の表示が光る。
二人の胸部エンブレムが点灯した。
「アーク・センター、レイ」
「アーク・ブレイク、ミオ!」
ヒトリグモが腕を振った。
太い黒い糸が、レイとミオの間の床へ突き刺さる。
糸を境に、照明の光が暗くなった。
ミオは四メートル先のレイを見る。
すぐ近くにいたはずのレイが、デッキの反対側にいるように小さく見える。
「レイさん!」
自分の声が、目の前の黒い糸へ吸い込まれた。
返事はない。
レイの口が動く。
何を言っているのか聞こえない。
「隣にいても、ひとり」
ヒトリグモが笑う。
ミオは端末を見る。
ナギとの通信も切れたままだ。
レイの声も届かない。
階段の下にいる人々の声も聞こえない。
聞こえるのは、ヒトリグモの声だけだった。
「お前だけ」
「誰も来ない」
ミオの指が端末の縁を握る。
目の前の糸を切ればいい。
だが、糸の向こうに見えるレイまでの距離が分からない。
走れば、糸のすぐ先でレイにぶつかるかもしれない。
止まれば、怪人が階段へ向かう。
レイはミオを見た。
床の継ぎ目へ視線を落とす。
一枚。
二枚。
四枚目の継ぎ目に、ミオのブーツがある。
見かけの距離は伸びていても、床は四メートルのままだ。
レイが一歩進む。
黒い糸がレイの両腕へ巻きついた。
もう一歩進む。
糸が強く張る。
レイは床へ右足を踏み込んだ。
「センター・グラビティホールド」
声は聞こえない。
足元に広がったマゼンタの固定リングで、ミオには技を使ったことが分かった。
レイは床へ身体を固定し、巻きつく糸を引いたまま三歩目を出した。
ミオの目には、遠くの人影が急に近づいたように見えた。
レイの右手が、黒い糸のすぐ向こうにある。
ミオは前腕のブレードを開いた。
「そこだ!」
「ブレイク・スラッシュライン!」
シアンの刃が、二人の間の太い糸を切った。
黒い膜が裂ける。
レイの声が、四メートル先から届いた。
「聞こえます」
ミオが息を吐く。
「近いなら、最初に言ってよ」
「言いました」
「聞こえなかった!」
ヒトリグモが背中の突起を開く。
新しい糸が十本以上放たれた。
「また来ます」
「今度は先に切る!」
ミオがレイの右を走る。
一本目を切る。
二本目を跳び越え、三本目を切る。
レイは正面から来た糸を両腕で受け止めた。
切れた糸の先が床へ落ちる。
切断面から黒い光が抜け、ヒトリグモの背中へ戻った。
すぐに同じ場所から新しい糸が伸びる。
ミオが四本目を切った。
また黒い光が背中へ戻る。
「切っても戻ってる!」
レイがヒトリグモの腕をつかんだ。
「糸の根元を止めます」
「根元って、いつもナギさんが見つけるところじゃん!」
レイは怪人の腕を押さえたまま答えた。
「はい」
黒い糸が、再び二人の間へ落ちる。
声が途切れた。
ミオは無数の糸を見る。
どれも同じ太さ、同じ色に見える。
ナギなら、どこを見る。
ミオは切れた糸の光を追った。
一本目の光が背中へ戻る。
二本目も同じ方向へ入る。
だが、黒い糸が重なり、先が見えない。
ミオは端末を持ち上げた。
通信表示は消えている。
それでも、カメラを怪人へ向けた。
⸻
駅前通り。
ナギは用事を済ませ、帰宅するため歩道を歩いていた。
端末から雑音が鳴った。
ナギはその場で立ち止まる。
「ミオ。レイ」
返事はない。
通話画面には、接続中の表示だけが残っている。
ナギは高架デッキの方向を見た。
ここから走っても、五分はかかる。
二人は、ナギの解析を待たずに怪人と向き合っている。
端末を持つ指に力が入った。
ナギは歩道の端へ寄り、通話ボタンを押した。
「今そちらへ向かいます」
返事はない。
自分の声も届いていない。
ナギは高架デッキの方へ走った。
一つ目の交差点を渡ったところで、通話画面が一度だけ明るくなった。
ナギは歩道の端へ寄り、足を止めた。
三秒分の映像が届く。
ミオが黒い糸を三本切る。
レイが怪人の両腕を押さえる。
切断面から出た黒い光が、怪人の背中へ戻る。
そこで映像が止まった。
ナギは再生ボタンを押した。
三秒。
もう一度。
三秒。
端末には、映像不足の警告が出ている。
ナギの親指が「追加映像を要求」の表示へ動く。
だが、送信先は接続されていない。
追加映像を待っている間も、二人は戦っている。
ナギは指を止めた。
確認できた三秒だけを見る。
一本目の黒い光。
背中の中央へ戻る。
二本目も同じ場所へ入る。
三本目だけ、中央から少し右へ曲がった。
そこに、ほかの糸より太い一本がある。
黒い光は、その根元へすべて集まっていた。
ナギは映像を拡大する。
太い糸が一度、脈打った。
「確認できました」
通話ボタンを押したまま、言葉を区切る。
「背中の中央より右」
雑音。
「黒く脈打つ、太い一本です」
送信表示が一瞬だけ点いた。
すぐに消える。
ナギは、届いたかどうか分からない画面を見た。
端末を両手で握り直す。
高架デッキへ向かって走り出した。
⸻
高架歩行デッキ。
ミオの端末から、雑音に混じって声が出た。
『背中の……右……太い一本……』
「ナギさん!」
ミオはヒトリグモの背中を見る。
無数の黒い糸が重なっている。
中央より右。
一本だけ、切れた糸の光を吸い込みながら脈打っていた。
「見えた!」
ヒトリグモが振り返ろうとする。
レイが怪人の両腕を引き、正面へ戻した。
「センター・グラビティホールド」
マゼンタの固定リングが怪人の足元へ広がる。
ヒトリグモの両足が床へ沈んだ。
背中の太い糸は、床から二メートルの高さにある。
ミオはヒトリグモの右へ走る。
正面から来た糸を一つ切る。
手すりへ左足をかける。
床を蹴り、怪人の背中まで跳んだ。
太い糸がもう一度、黒く光る。
「そこ!」
「ブレイク・スラッシュライン!」
シアンの刃が、太い糸の根元を切断した。
デッキに張られていた糸が一斉に緩む。
照明から落ちる。
手すりから剥がれる。
レイとミオの間を覆っていた黒い膜も消えた。
四メートルの距離が、見た通りの長さへ戻る。
階段の下から、子どもの声が聞こえた。
ヒトリグモが身体をよじる。
「届かない!」
ミオが着地した。
「三秒の映像は、ナギさんへ届いた!」
レイが怪人を押さえたまま答える。
「ナギの指示も、こちらへ届きました」
二人の胸部エンブレムが光る。
「アーク・デュアルストライク!」
マゼンタとシアンの光が、ヒトリグモの胸で重なった。
怪人の黒い身体が細かな粒へ崩れ、そのまま消えた。
⸻
東側の階段。
学生の一人が、三段下にいる友人へ声をかけた。
「一緒に帰ろう」
友人は一度立ち止まり、三段上がった。
二人が同じ段に並ぶ。
子どもが母親の袖を引いた。
「お母さん、下の赤い車見て」
母親が子どもの指す道路を見る。
「ほんとだ。小さいね」
仕事帰りの男女も、同じ速度で階段を下り始めた。
ミオの端末に通信音が鳴る。
『二人とも聞こえますか』
「聞こえる!」
『今、高架デッキへ向かっています』
レイが答えた。
「怪人は消えました。負傷者もいません」
通話の向こうで、ナギの足音が止まる。
『……分かりました』
「ナギさん」
『はい』
「背中の一本、当たってた」
『三秒しか見ていません』
「三秒で見つけたんでしょ」
ナギはすぐに答えなかった。
ミオは端末を耳へ近づける。
「助かった」
レイも続ける。
「ありがとうございました」
短い間のあと、ナギの声が返る。
『……どういたしまして』
レイがバックルへ手を当てた。
「ARK SUIT――DISENGAGE」
二人の装甲が光の粒となり、バックルへ戻る。
黒いフィールドスーツが消え、二人は白いジャケット姿へ戻った。
ミオが端末へ聞く。
「ナギさん、今どこ?」
『中央交差点です』
「そこから家に帰れる?」
『はい。帰れます』
「じゃあ、今日はそのまま帰って。こっちはもう大丈夫」
『分かりました』
通信が切れた。
レイとミオは高架デッキを西へ歩く。
少し先で、二人の帰り道が分かれた。
「じゃあ、レイさん。また明日」
「はい。また明日」
二人は別々の方向へ歩き出した。
しばらく歩いたところで、ミオの端末が一度鳴った。
ナギからのメッセージだった。
〈帰宅しました〉
ミオはその場で返信した。
〈了解。おやすみ、ナギさん〉
すぐに既読がつく。
〈おやすみなさい〉
ミオは端末をしまった。
一人で歩く夜道の前後から、人々の話し声が聞こえる。
ミオは同じ道を、家へ向かって歩いていった。
