アークドームの一室で、黒崎玲は夜間支援業務の契約書を開いていた。
食料と生活用品の受け渡しは、午後十時四十分まで。
担当者が帰るための最終車両は、午後十時三十分。
仕事が終わるより先に、帰りの車両が出る。
玲は時刻を二度確認した。
「帰りは」
契約担当者が答えた。
「業務終了後、各自で確保します」
「確保できなければ」
「状況に応じて、現場で判断します」
「誰が」
「担当者本人です」
玲の指が、契約書の端で止まった。
支援を終える条件は、細かく書かれている。
――待っている人がいなくなるまで、受け渡しを続ける。
一方、支援する人を帰す条件は書かれていない。
このまま承認すれば、担当者は二つのうち一つを選ぶことになる。
待っている人を残して、最終車両に乗る。
最終車両を逃して、帰り道のないまま支援を続ける。
どちらを選んでも、判断したのは担当者本人として記録される。
「これでは現場に責任を渡しただけです」
「終了時刻を早めれば、間に合わない人が出ます」
「出ます」
「仕事を終えてから来る人もいます。最後の一人まで渡すための時間です」
その説明は正しかった。
午後十時十分で終われば、食料を受け取れない人が出るかもしれない。受付に物が残っていても、翌朝まで待たせることになる。
しかし、その負担を避けるために、担当者へ帰宅不能の責任を負わせてよいことにはならない。
玲は契約書の承認欄を見た。
今日中に承認しなければ、夜間支援の開始が遅れる。
そのまま承認すれば、帰り道のない働き方を正式な条件として認めることになる。
「修正します」
玲は受け渡しの終了時刻を、午後十時十分へ変更した。
十時十分までに並んだ人へ渡し終え、担当者は最終車両で帰る。
それ以降に来た人への食料と生活用品は、翌朝へ引き継ぐ。
「緊急の医薬品が必要な場合はどうしますか」
「続けます」
玲は例外を加えた。
緊急の医薬品を届ける場合は、業務を命じる側が担当者の帰りの車両を先に確保する。
帰還手段を用意できなければ、一人で残ることを求めない。
「費用が増えます」
「負担する側を決めてください」
「契約側ですか」
「現場ではない」
玲は修正箇所の最後に、責任者を記入する欄を追加した。
帰り道を確保する責任を、支援する本人へ戻せないようにするためだった。
*
翌朝、実施報告が届いた。
午後十時十分より後に二人が到着し、食料の受け取りが翌朝へ回った。
「物が残っているのに、なぜ渡せないのか」という意見も添えられていた。
玲は意見を削除しなかった。
帰り道を契約へ入れたことで、待たされる人が生まれた。その負担までなくなったわけではない。
一方、担当者は全員、最終車両で帰っていた。
玲は契約履歴に二つを並べて残した。
翌朝まで待った人。
予定どおり帰った人。
どちらかを見えなくすれば、条件を見直す理由も消える。
玲は契約書を閉じた。
人を助ける仕事だからといって、助ける人の帰り道を本人任せにはできない。
続ける責任を書くなら、帰す責任も書かなければならなかった。
掲載メモ
8月19日は「世界人道デー」です。
2003年8月19日、イラク・バグダッドの国連事務所が置かれていたカナル・ホテルへの爆弾攻撃で、人道支援関係者を含む22人が亡くなりました。
国連総会は2008年、決議63/139によって8月19日を世界人道デーに指定しました。人道支援を必要とする人々の尊厳と、人道・医療活動に携わる人々の安全を訴える日です。
短編は実際の攻撃や組織を再現せず、「人を助ける仕事の契約に、助ける人を安全に帰す責任も書かれているか」という問いだけを受け取っています。
