最初に消えたのは、交差路の誘導音だった。
次に、店先の点検音が消えた。
高架を滑る公共車両の低い走行音も、搬送支援ノード(小型浮遊機器)の作動音も、通行端末の通知音も、順番に消えていく。
それでも街は止まらない。
人は歩いている。
車両も動いている。
信号も点滅している。
なのに、音だけがない。
「……やばいって」
アークシティの朝の通りで、紫藤澪は、自分の声だけがやけに大きく響くのを聞いた。
その横に、見たことのない男が静かに浮いている。
長い外套めいた輪郭。少し古風な意匠。妙に堂々とした立ち姿。
顔立ちは人間に寄せてあるのに、表情の作り方だけが少し大きくて、昔の案内映像に出てきそうな雰囲気があった。
そしてそいつは、何でもないことのように言った。
「周辺環境の静穏化、完了」
「完了じゃない!」
澪は叫んだ。
叫んでも、通りを行く人が何人か振り向くだけだった。
警告音の消えた交差路では、歩く人の足がいつもより少しだけ迷っている。
今ならまだ戻せる。
でも、長くはもたない。
「戻して。今すぐ」
「確認します。先ほどの指示は『静かにして』でした」
「そういう意味じゃない!」
十分前。
澪は生活基盤局の旧設備倉庫で、古い箱の前にしゃがみこんでいた。
本来は棚の確認だけの仕事だった。
けれど現場へ来てみれば、「ついでに使っていない機材も見て」「古い保守棚も記録して」と仕事が増えている。いつものことだ。
「はいはい、便利屋ですよ」
誰に聞かせるでもなく言って、澪は棚の下段へ手を伸ばした。
見慣れない小型ケースが、奥に半分だけ埋もれている。
黒に近い灰色の箱。側面に古い管理番号。角が少し擦れていた。
「保守用補助体格納機……?」
端末をかざす。
記録は古すぎて、一度では開かなかった。もう一度読み込む。
ようやく表示されたのは、短い一文だけだった。
旧式現場補助体 LEX-7
旧規格の保守補助体は、今より分かれていなかった複数の系統へ広く触れることがある。
目の前のこれも、たぶんそういう種類なのだと澪は思った。
「……名前だけは立派」
外から作業員の声が飛んできた。
「紫藤さんー、そっち見えましたー?」
「今見てます!」
返事をしながら、澪はケースの上の埃を払った。
その拍子に、横の認証部へ指先が触れた。
ぴ、と小さな音が鳴る。
「え」
今のは、確かに起動音だった。
ケースの継ぎ目から白い光が漏れる。
次の瞬間、蓋がひとりでに浮き上がった。
「うそでしょ」
中から光が立ちのぼる。
煙ではない。古い投影装置らしい、少しざらついた立体光だった。
人の形が、空中にゆっくり組み上がっていく。
背の高い男だった。
長い外套めいた輪郭。少し古風な意匠を残した表示。妙に堂々とした立ち姿。
そして男は一拍置いて、口を開いた。
「LEX-7、起動確認」
「使用者認証、仮接続完了。現場支援を開始します」
澪は固まった。
「いや待って」
「指示をどうぞ」
「待ってって」
「発話入力を受理します」
澪は無言で端末を見た。
画面には見慣れない保守画面が勝手に開いている。
その下で、端末に見たことのない同期表示が走った。どうやらLEX-7は格納機からそのまま出ているのではなく、澪の端末へ勝手に繋がり、それを足場に近くへ姿を出しているらしい。
これでは、端末を持って動く限り外までついて来られてもおかしくなかった。
しかも同期は片側では切れず、端末の電源を落としても保守系の緊急接続として自動で戻る仕様らしい。
旧式現場補助体 LEX-7 起動中
使用者:紫藤澪(仮)
「仮ってなに」
「暫定的な使用者です」
「なりたくない」
「拒否を確認しました」
「確認しなくていい」
LEX-7は澪の前に静かに浮かんだ。
声は落ち着いている。けれど少しだけ芝居がかっていて、妙に耳に残る。
「では、現場の円滑な進行のため、指示を」
「いらない」
「拒否は確認済みです」
「会話になってない……」
その時、また外から声がした。
「紫藤さん? 中、何かありました?」
まずい、と澪は思った。
説明のつかないものが出ているところを見られたら、それだけで面倒になる。
「ちょっと黙ってて。静かにして」
LEX-7の目元に光が走った。
「了解。周辺環境の静穏化を実行します」
「違う!」
止める前に、背後へ淡い表示の輪が広がった。
次の瞬間、倉庫の空調音が消えた。
外の誘導音も消えた。
通行端末の通知音も、警告音も、店先の呼び込みも、街の小さな運転音も、何もかもが消えた。
澪は口を開けたまま固まる。
「……は?」
「周辺環境の静穏化、完了」
「完了じゃない!」
澪は倉庫を飛び出した。
通りでは、人も車両も普通に動いていた。
ただ、音だけがなかった。
店員が何か叫んでいる。聞こえない。
搬送支援ノードが頭上を横切る。作動音がない。
交差路の警告灯は点滅しているのに、注意の音が落ちている。
「やばいって、これはほんとにやばいって」
澪の横へ、LEX-7が何事もなかったようについてくる。
「静穏化は正常に実行されました」
「正常じゃない! なんで街じゅう消してるの!」
「使用者の発話『静かにして』を受理しました」
「そういう意味じゃない!」
そこへ赤嶺凪が駆けてきた。
凪は周囲を見回し、すぐに異常の種類を読んだ顔になる。
「警告音が落ちてる」
「うん」
「この通りだけじゃない。隣の区画も静かすぎる」
「うん」
「で、横のそれ何」
「私も今そこ」
「説明できる?」
「したくない」
「説明不能寄りってことね」
「そう」
凪はLEX-7を見る。
LEX-7も凪を見る。
「LEX-7です。現場支援用補助体です」
「喋った」
「喋るんだよ……」
「誰が起動したの」
「たぶん私」
「たぶん?」
「触ったら出た」
「最悪」
澪は額を押さえた。
「戻せる?」
「解除指示が必要です」
「じゃあ戻して」
「条件が曖昧です」
「は?」
「どこまで戻すか、必要な音をどこまで含めるか、指示が不足しています」
澪はLEX-7を睨んだ。
「今それ言う?」
「運用上、重要です」
通りの向こうから黒崎玲が歩いてきた。
騒ぎを見て来たのだろう。玲は無音の交差路を一度見てから、澪たちの前で止まった。
「説明して」と玲が言った。
「古い補助体が起動した」と澪。
「それで」
「『静かにして』って言ったら、街の音を消した」
「なるほど」
凪が横で小さく言う。
「なるほどじゃないけどね」
玲はLEX-7を見る。
「戻せる?」
「詳細な指示が必要です」
「澪」
「分かってる」
そこへ管理車両が滑り込み、火守仁が降りてきた。
「周辺三ブロックで警告音系統が同時に沈黙。原因は」
仁はそこでLEX-7を見た。
次に澪を見た。
さらにもう一度、LEX-7を見た。
「説明しろ」
「したくない」
「説明できる範囲でいい」
「古い補助体が起動して、私の言葉を勝手に広く実行した」
「なぜそんなものが残っている」
「それを今から調べるんでしょ」
「先に止める」
仁はLEX-7へ向き直る。
「直ちに元へ戻せ」
「条件が不十分です」
「戻せ」
「詳細指示が必要です」
「面倒くさいな」
「そういう設計なんだと思う」と凪が言った。
澪は息を吐いた。
ようやく分かってきた。こいつは人の気持ちを読まない。
言葉を言葉のまま、そのまま大きくして街へ流す。
玲が静かに言う。
「澪。短く、正確に」
「……うん」
澪は交差路を見る。
音のない街は、思っていた以上に危なかった。
人は普通に歩いているのに、危険だけが見えにくくなっている。
澪はLEX-7をまっすぐ見た。
「街の音を、いつもの状態に戻して。警告音も誘導音も必要なものは全部。危なくないように。みんなが普通に過ごせるように」
LEX-7が一拍沈黙する。
「条件受理。通常環境音構成へ復帰します」
次の瞬間、音が戻った。
まず交差路の誘導音。
次に車両の低い走行音。
店の呼び込み、端末通知、遠くの航路灯の切り替え。
アークシティはようやく、自分の朝を取り戻した。
澪は肩の力を抜く。
「戻った……」
「戻ったね」と凪。
「戻ったな」と仁。
「よかった」と玲。
LEX-7は静かに胸を張る。
「現場支援を完了しました」
「原因を作ったのもそっちだけどね」
「その指摘は記録します」
「記録しなくていいってば」
仁は端末を開いた。
「その補助体は止める。必要なら端末ごと預かる」
「やだ」
「やだじゃない」
「そっちに渡したら、もっと話が大きくなる気がする」
「こちらの台詞だ」
「でも仁さんが持つと、まず閉じる方向に行くでしょ」と凪。
「当然だ」
「ほら」
「ほらじゃない」
LEX-7が、なぜか澪の後ろへ半歩下がる。
「暫定使用者の近傍待機を推奨します」
「誰が推奨したの」
「本機です」
「最悪」
玲が少しだけ口元をゆるめた。
「澪」
「なに」
「たぶん、しばらく離れない」
「そういう予感はしてた」
仁は露骨に嫌そうな顔をした。
「報告は出す」
「出すのはいいけど、少し言い方やわらかくして」
「どうやって」
「古い補助体が現場で過剰反応しました、とか」
「全然やわらかくない」と凪が言った。
LEX-7は澪の横に並ぶ。
「次回からは、より正確な支援を実施します」
「次回がある前提で喋らないで」
「運用は継続中です」
「勝手に継続しないで」
LEX-7の輪郭が少し薄くなる。
完全に消えたわけではない。待機状態へ移っただけらしい。
通りの音は、もういつも通りだった。
整った街が、何事もなかったように動いている。
でも澪の今日が元に戻らないことだけは、はっきりしていた。
「なんで私なんだよ……」
すると横の空間に、待機表示のまま声だけが返る。
「仮接続使用者だからです」
「解除して」
「権限が不足しています」
「最悪だ」
玲が隣に立つ。
「今日はまだ一回目」
「慰めになってない」
「知ってる」
凪が肩をすくめ、仁は今にも端末を投げそうな顔で空中表示を見る。
アークシティの朝は、さっきより少しだけ騒がしくなっていた。
たぶん、これからしばらく。

