赤嶺凪は、中央医療棟の視覚調整室を訪れた。
年に一度の目の検査と、眼鏡の調整を受けるためだ。
入口を通ると、床に青い案内線が現れた。予約情報と本人認証はすでに結び付いている。受付で名前を告げる必要はなかった。
凪が案内線に沿って進むと、検査室の扉が開いた。
椅子へ座り、眼鏡を外す。
検査機から弱い光が伸び、左右の目を順番に測った。視力だけでなく、瞳の動きや、明暗が変わったときの見え方も確認される。
検査結果は、隣の調整室へ送られた。
技師は凪の眼鏡を受け取り、透明な調整機へ入れた。
「左のレンズだけ、夜間用の補正を更新します。右は変えません」
凪はうなずいた。
調整機の内側で細い光が走る。
だが、レンズの書き換えは始まらなかった。
《本人による最終確認を待っています》
凪は表示を見た。
「入口で認証は終わっています」
「はい。あなたが赤嶺凪さんであることは確認済みです」
技師は、壁に表示された調整内容を指した。
「ここで確かめるのは、別のことです」
表示には、書き換えるレンズと、変更後の見え方が並んでいた。
《対象:左レンズ》
《変更:暗所で広がる光を抑える》
《右レンズ:変更なし》
《試用期間:二十四時間。元の設定へ復帰可能》
技師が尋ねた。
「最近、夜の案内灯が二重に見えるのは、どちらの目ですか」
凪は片目ずつ閉じ、検査前に見た廊下の照明を思い出した。
「左です」
「表示されている内容と合っていますか」
凪はもう一度、変更箇所を読んだ。
「合っています。左だけ更新してください」
《本人確認完了》
調整機が動き始めた。
入口の認証は、人と記録を結び付けるためのものだった。
最後の確認は、記録に書かれた変更を、本当に自分が受けるのか確かめるためのものだった。
同じ確認を繰り返していたわけではない。
数分後、調整を終えた眼鏡が戻ってきた。
凪がかけると、技師が室内の照明を落とした。
壁に夜間用の案内表示が浮かぶ。白い文字の周囲にあった光のにじみが、左目でも細く収まっていた。
「見え方はどうですか」
凪は遠くの文字まで読み終えてから答えた。
「これで大丈夫です」
扉が開き、帰路を示す青い線が床へ伸びた。
凪はその線ではなく、廊下の先にある小さな出口表示を見た。眼鏡を直すことなく、その文字を読んだ。
掲載メモ
9月17日は、世界患者安全の日です。
2019年5月、第72回世界保健総会は患者安全を世界的な優先課題とする決議を採択し、毎年9月17日を世界患者安全の日と定めました。
2026年のテーマは、長期的な治療や継続的なケアを必要とする非感染性疾患の安全な医療です。
この短編では、「高度な本人認証が普及した未来でも、医療を受ける本人が処置内容を確かめる過程は残る」という点を受け取りました。作中の視覚調整室、検査機、レンズの書き換え技術は架空です。
参照・確認した情報
WHOは、安全な医療には技術や手順だけでなく、患者と家族が意思決定へ参加することも必要だとしています。
また、本人確認は単に名前を繰り返すことではありません。正しい患者と医療記録を結び付け、予定された処置が本人の理解と一致しているか確かめる過程も患者安全に含まれます。
