一般公開を終えた第七区画事故追悼施設には、献花台を照らす白い灯だけが残っていた。
人の声が消えたあとの公開区画を、黒崎玲はゆっくりと歩いた。
この場所では、いつも足音が小さくなる。そうしようと決めた覚えはない。壁際に残された名前や手書きの言葉を前にすると、身体の方が先に歩幅を狭めた。
事故保全記録の原本照合を終え、玲が出口へ向かおうとしたとき、奥の保全室から担当者に呼び止められた。
「もう一つ、確認していただきたい記録があります」
差し出されたのは、一枚の献花カードだった。
薄い保存包材に収められた、小さな白いカード。縁はわずかに黄ばんでいる。正面から見るかぎり、表にも裏にも文字はなかった。
隣の端末には、そのカードの画像と保存記録が開かれていた。
記載内容――なし。
玲の視線が、その二文字で止まった。
「なし」は処理しやすい。追加の照合も、保留も必要ない。記録を整然と閉じることができる。
その閉じ方が、玲には少し早すぎるように見えた。
「この記録を登録したのは、あなたですか」
玲が問うと、保全担当者はうなずいた。
「はい。インクは残っていません。光の角度を変えても、画像を補正しても、文字としては読み取れませんでした」
「原本を残した理由は」
「献花カードは、電子化したあとも原本を残します」
怠慢ではなかった。
読めない言葉を想像で埋めないために、担当者は確認できた範囲だけを記録している。手順にも反していない。
正しく処理した結果だった。
だからこそ玲は、胸の内に残った違和感を、感情だけで押し通すわけにはいかなかった。
玲はカードを包材ごと持ち上げた。
銀の腕時計が白い灯を受ける。紙面の角度を少しずつ変えていくと、何もなかったはずの白い面に、細い陰が浮かんだ。
筆記具を押しつけた跡だった。
短い線と長い線が重なり、途中で止まり、また続いている。
誰かがここに立ち、この紙へ何かを残そうとした。
その事実だけは、まだ紙の中に残っていた。
玲は線の形を追いかけかけて、視線を止めた。
名前なのか。短い言葉だったのか。それとも、最後まで書き終えられなかったのか。
どれも確定できない。
読めないものを、読みたい形に整えてはならない。それでは書いた人を残すことにはならない。別の誰かが、その人に代わって言葉を決めるだけだった。
「何かは、書かれています」
「痕跡はあります。ただ、内容は確定できません」
「内容は確定しなくていい」
玲はカードを机へ戻した。保存包材の冷たさだけが、指先に残った。
「記載なし、ではありません」
担当者は、端末の表示と原本を見比べた。
「では、どう残しますか」
玲は答える前に、わずかに間を置いた。
言葉を足せば、推測になる。
削れば、書こうとした行為まで消える。
そのあいだに残せる事実だけを選んだ。
「判読不能。記載痕あり。原本保全」
「それ以上は」
「書けません。それ以上は事実ではない」
担当者は記録を開き直した。
『記載なし』の行を消そうとして、指を止める。
「訂正前の判断は残しますか」
「残してください。なぜ『記載なし』と判断したのかも」
訂正前の記録を消せば、何が見落とされたのかも消える。
初めから正しく判断できていたような、整った履歴だけが残る。
玲には、それを正しさとは呼べなかった。
新しい記録が、古い記録の下へ加えられた。
判読不能。記載痕あり。原本保全。
訂正理由――内容の不確定と、記載の不存在を分けて保存するため。
入力音が止まり、保全室に静けさが戻った。
担当者は、保存包材の中のカードを見た。
「内容は、もう戻せません」
「はい」
玲にも分かっていた。
どれほど正確に記録を積み直しても、失われた言葉は戻らない。誰が、どのような思いで筆記具を握ったのかも分からない。
その人の思いを救い上げたことにもならない。
それでも、分からないものを、分からないまま背負うことはできる。
そこにあった重さを、「なし」の一語で軽くしないことはできる。
玲はカードに残る浅い凹みから目を離さなかった。
「戻せないことと、なかったことは違います」
カードは元の保全箱へ戻された。
何が書かれていたのかは、最後まで分からないままだった。
箱が閉じられるまで見届けてから、玲は保全室を出た。
施設の外では、アークドームの多層外殻に青白い制御発光が走り、環状の交通路には帰る人々を運ぶ灯が流れていた。都市は、夜の運用へ静かに移っている。
玲の胸に残った硬さも、消えてはいなかった。
何かを取り戻したわけではない。何かを終わらせたわけでもない。
ただ、誰かが確かに書こうとした場所を、記録の中に残すことはできた。
端末の中にも、失われた言葉は戻らなかった。
それでも、その一枚はもう、空欄としては残らなかった。
1985年8月12日、日本航空123便墜落事故が発生しました。
この掌編は事故をアークシティに置き換えるのではなく、失われた言葉や人の存在を「なかったこと」にしないという主題から書いています。
