LEX限定運用評価試験は、都市演算統制局から都市運営局・生活基盤部・都市システム保守課へ依頼されたものだった。
評価対象は、都市全体ではない。
居住基盤区で運用される生活基盤設備。
街路灯。
小型通信ノード。
末端配電。
仮設案内表示。
ARK NODE。
公共交通の案内系統。
ただし、公共交通側は、評価対象に指定された停留所係員端末、仮設案内表示、到着通知に限られる。
市民の日常に近く、障害が発生しても直ちに都市全体へ波及しない範囲だけが選ばれていた。
期間は二週間。
LEXは都市演算そのものではない。
独立した演算ユニットとして動作するスタンドアロンAIだった。
必要な時だけ、認証された設備へ限定接続する。
許可範囲で行えるのは、状態参照、局所診断、対応案の提示まで。
設定変更、切替、遮断は、設備ごとの認証担当者が内容を確認し、自身の権限で実行する。
LEXに現場の最終判断権限はない。
都市演算、重力炉系統、基幹インフラ制御への接続は禁止。
評価区域外での運用と、自律権限の取得も認められていない。
接続可能な設備を検出することはできる。
だが、認証されていない系統へ接続を実行する権限はない。
今回見るのは、性能の高さだけではなかった。
現場へ持ち込めるか。
人のいる場所で使えるか。
そして、限定的な継続評価へ進めるか。
その境目を見る試験だった。
依頼書にある「境目」という言葉を、澪は朝から何度か目で追っていた。
性能表の上なら、線は引ける。
応答時間。診断精度。接続範囲。
けれど現場で問われる境目は、もっと輪郭が曖昧だった。提案に従ったあと、誰かの帰り道が残るのか。設備が正常へ戻っても、その人の暮らしまで戻るのか。
そこを見ないまま「使える」と決めることだけはしたくなかった。
評価担当に選ばれたのは、紫藤澪。
都市システム保守課の現場エンジニア。
複合接続障害対応認証を持つ。
設備一台を直すだけではなく、複数の設備や導線が同時に噛み合わなくなった現場で、何を先に戻すかを見る仕事をしている。
LEXを最初に預ける相手として、現場側から名前が上がった。
ただし、試験を澪一人へ預けるわけではない。
現場の優先順位と評価判断は澪が担う。
黒崎玲が接続権限と判断履歴の適正を監査する。
火守仁は安全監督として、評価範囲を越える兆候があれば即時に試験を止める権限を持つ。
三人が同じ部署の常設チームになったわけではない。今回の横断評価に必要な役割と記録だけが、制度上つながれていた。
AIの提案を、人の責任が見えない形で通さないための体制だった。
澪に断る理由はなかった。
使えないと切るのは簡単だ。使える場所と、止めるべき場所を見分ける方が難しい。保守の仕事は、たいていその難しい方を引き受ける。
朝七時四十五分。
保守課の一室に、黒い耐衝撃ケースが運び込まれた。
封印表示には、白い文字が出ている。
《LEX 限定運用評価対象》
若い課員がケースを見た。
「これがAIですか」
「そう」
澪は認証端末をかざす。
電子封印が解除された。
乾いた解除音を聞いた時、澪の指先にわずかな緊張が残った。
ケースの中身そのものより、そこから出される提案を人がどう扱うか。その方が重いことを、彼女は知っていた。
中に入っていたのは、人型の機械ではない。
薄い銀色の演算ユニット。
接続用端末。
補助電源。
それだけだった。
「思ったより小さいですね」
「現場へ持っていくからね」
澪は演算ユニットを持ち上げた。
「重いと困る」
評価室で電源を入れる。
白い表示灯が、一度点いた。
『初回起動を確認しました』
落ち着いた声だった。
『私はLEXです』
『限定運用評価を開始します』
澪は端末を見た。
「最初に一つ聞くね」
『どうぞ』
「現場って何?」
正解を聞きたいわけではなかった。
LEXが最初に設備を見るのか、人を見るのか。それを確かめるための問いだった。
わずかな間。
『設備を保守する場所です』
澪は首を横へ振った。
「半分」
『不足項目を確認します』
「現場は、人が困る場所」
LEXは答えなかった。
澪は急かさなかった。いまの沈黙が演算上の保留なのか、単なる応答待ちなのかは分からない。
分からないものを、都合よく理解と呼ぶつもりもなかった。
澪は、その沈黙も判断履歴へ残した。
初期概念差異。
生活側認識、要評価。
最初の案件は小さかった。
居住基盤区の街路灯、一基。
市民から上がった内容は、
点いたり消えたりする。
それだけ。
重大障害ではない。
だから最初の評価には向いていた。
大きな事故では、人もAIも処理に追われる。
小さな故障なら、LEXが何を見て、何を見落とすかが分かる。
「行こう」
『保守課仕様の実務用EVバイクを使用した場合、移動時間を短縮できます』
「今日は歩く」
『理由を確認します』
「街を見るから」
車両なら、設備へは早く着ける。
だが、その設備を使う人がどこから来て、どこへ向かうのかは見えにくくなる。急ぐことで消える情報もある。
少し間があった。
『了解しました』
居住基盤区の朝は、静かに動いていた。
パン屋が店を開ける。
学校へ向かう子どもたちが歩く。
清掃員が歩道の端を整えている。
高架の向こうを、エアロシャトルがゆっくり横切った。
LEXが周囲の情報を読み上げる。
『歩行者数、通常範囲内』
『車両流量、通常範囲内』
『対象設備、通信応答不安定』
澪は歩きながら言った。
「違う」
『不足情報を確認します』
「朝ごはん買う人」
「学校へ行く子」
「仕事へ向かう人」
歩道脇を自転車が通り過ぎる。
「その人たちが困らないように直す」
「それが保守」
『記録します』
街路灯は、小さな公園の入口にあった。
昼でも高架の影が残る場所だった。
夕方には、子どもや高齢者が通る。
LEXが限定診断を始める。
『通信モジュール異常の可能性があります』
『交換を推奨します』
「早いね」
予想していた答えだった。
速さは助かる。けれど、その速さに乗ったまま部品を外せば、正常なものまで故障として処理される。交換後に灯りが点けば、記録の上では成功になる。
その整いすぎた結末を、澪は信用しきれなかった。
『類似保守記録に基づく推定です』
「でも、まだ開けてない」
澪は下部パネルを外した。
通信モジュールは正常。
代わりに、コネクタの端に細かな水滴が残っていた。
下部カバーの防滴パッキンが一部噛み込み、排湿溝を塞いでいる。
見つけた瞬間、肩に入っていた力がわずかに抜けた。
LEXの診断に勝ったからではない。使える部品を、故障という名前で捨てずに済んだからだった。
夜明け前の結露。
高架の影で乾きにくいところへ、逃げ場を失った湿気が残ったらしい。
「原因、違うね」
『診断との差異を確認しました』
「こういうの、あるんだよ」
乾燥処理。
接点清掃。
パッキンの入れ直し。
排湿溝の清掃。
再接続。
街路灯は安定した。
澪は再発監視を設定した。
近くのベンチにいた高齢の女性が顔を上げた。
「直りました?」
「はい」
「夕方、ここ暗くてね」
「しばらく様子見ます」
「助かります」
澪は軽く頷いた。
礼を言われても、達成感が大きく湧くわけではない。ただ、夕方にここを通る人が暗がりで足を止めずに済む。その像が胸の奥へ収まると、ようやく作業が終わった気がした。
LEXは会話そのものを保存しなかった。
生活影響として、
夜間歩行導線への影響あり
とだけ分類した。
個人の会話を残さない処理は正しい。
それでも、その一行だけでは、女性がなぜ灯りを待っていたのかまでは伝わらない。正しい記録ほど、こぼしたものに気づきにくいことがある。
澪は工具を片付ける。
「LEX」
『はい』
「いま直したの、何?」
『街路灯です』
「それだけ?」
沈黙。
澪は公園の入口を見る。
「夕方に、この人が歩ける道」
「それも直した」
『記録します』
「まだ記録しなくていい」
澪は立ち上がった。
言葉だけを先に覚えれば、次も正しそうな分類で終わるかもしれない。見たものが何を意味するのかは、まだ澪にも一度では教えきれなかった。
「先に見て」
帰局後。
判断履歴を登録する。
案件番号 L-001
LEX初期診断
通信モジュール異常。
実原因
防滴パッキンの噛み込みと排湿不良により、結露が残留。接点が不安定化。
設備復旧
復旧。経過観察を継続。
生活影響
夜間歩行導線の不安定化。
所見
LEXは設備状態の推定が速い。
ただし現場確認前に交換判断へ進みやすい。
設備単体ではなく、利用者と時間帯を含めた再評価が必要。
継続評価。
入力を終える。
『本日の評価を更新します』
『現場とは、設備だけではありません』
『人が存在する場所です』
澪は端末を見る。
存在する、という言葉は間違っていない。
けれど人は、ただその場に存在しているわけではない。帰る途中で、誰かへ声を届けようとして、明日のために道を使っている。
その差を、短い定義へ押し込めたくはなかった。
「まだ違う」
LEXは黙る。
「でも、最初はそれでいい」
その時。
画面の端に、別の記録が残っていた。
同じ居住基盤区にある小型通信ノード。
ごく短い応答遅延。
「これ、今朝から?」
『はい』
『基準範囲内のため通知優先度を下げていました』
澪は画面を見る。
「拾ったね」
『何をですか』
「まだ名前のついてない異常」
胸の奥に、ごく小さな手応えが生まれた。
理解した、と決めるには早い。それでもLEXは、優先度を下げた情報を消してはいなかった。拾い直せる場所に残していた。
LEXは少し間を置いた。
『記録します』
窓の外では、街が普通に動いている。
止まってはいない。
だからこそ、その手前の揺らぎは、誰かが拾わなければならなかった。
澪は通知を閉じなかった。
街が普通に動いているうちに、その普通から外れかけたものを見る。それが、自分に預けられた側の仕事だと思った。